第四章
 4 微笑み



鳥の鳴き声がした。

まるで朝を迎えることを喜んでいるかのような、明るい声。

日差しと共に、それはその町に降り注がれる。

しかし、まだ夜が明けて間もない時間にそれを聴いた人は一体どれだけいるだろうか。

それは誰にも、例えさえずっている鳥ですら知らない事だ。

しかし、唯一つだけいえることがある。

それはその声が響いていた時間に、一人の少女が起きたということ。

「…ん…。」

少女 ――― 裕璃は、小さく声をもらす。

彼女の朝は女子高生としては早いほうかもしれないが、今の時刻は丁度夜がちゃんと明けた頃。

こんな時間に起きたことなどよほど心配したときかあるいは昼寝でもしたときだとか、そういったときだけだ。

しかし、今日は寝方がいつもと違っていたため、早く起きてしまったのである。

彼女は、うつ伏せになって寝ていた。

もちろんこのように寝ている人は世の中にいるだろうが、彼女のいつもの寝方は横向きだ。

こんな体制で寝たことなど、覚えている限りではない。

ならばなぜ、今日はこの体制で寝ていたのだろうか。

理由はごく簡単なことである。

昨夜、少女が一時期目を覚ました後 ―――――――



泣き声が、辺りに響きわたる。

それは少女の心の亀裂より発せられたもの。

今にも壊れそうなそんな声を発する少女は、修司の服をギュと掴んでいた。

「…。」

修司は今度は何も言わず、ただ少女の背を撫でてやる。

そうすることで少女の声は一層大きくなっていたが、今はこれでいい。

辛いことがあったならば、吐き出せばいい。

それが何であるか彼には分からない。

それどころか、少女が何者であるかも知らない。

けれど、少しでも彼女の心を軽くできたなら。

そういう想いを込めて、今の自分に出来る事を自分の思うままに。

少女が壊れてしまう前に、せめて自分の出来ることを。

すると、そんな想いが通じたのだろうか。

少女からだんだんと泣き声が止んでゆき、ついには嗚咽すら聞こえなくなった。

「…落ち着いた?」

修司はそんな状況になってから少女に声をかける。

極力優しく、聞こえるか聞こえないかの小さな声で。

だが、少女からの返事は無い。

周りが静かだったから聞こえると思ったのだが、駄目だったのだろうか。

彼はそう思い、もう一度、

「大丈夫?」

と、少し大きめに言う。

しかし、やはり少女からの反応は帰ってこない。

修司は目線を上げて、裕璃の方を見る。

少し遠くにいた彼女は、修司の視線を受けて彼らのほうへと近づく。

そして修司の横までゆき、彼の肩に顔を置いている少女の表情を覗き込むように見た。

「…あ…!」

「ど…どうしたの?!」

裕璃がもらした声に、思わず大声を上げてしまう修司。

そんな彼に、裕璃は自分の唇に人差し指を当てる。

静かに、という今時珍しい合図であるそれによって、修司は慌てて口元を押えた。

もう大声を出してしまったので意味が無いというのに、反射的に。

そんな彼の行動に裕璃は少し微笑んで、

「…大丈夫、ただ寝てるだけだよ。」

泣き疲れちゃったのかなと、小さな声でポツリとつぶやいた。

彼女の答えを聞いて、修司は安堵のため息を吐く。

まさか少女に何かあったのではないだろうか。

先ほどの少女の行動もあってか、彼はそんなことを考えていたのだろう。

しかし、ただ寝ているのならば安心である。

自分達の前で泣いていたのだから、張り詰めていた何かも解けたということだろう。

それならば少女のことなど、起きてから色々聞くことができる。

修司はそう思いながら、少女の肩にそっと手を置く。

このままの体制では寝にくいだろうと思って、ベットに寝かせようと思ったのだ。

「…あれ…?」

しかし、修司は思っていた事を実行できなかった。

確かに、彼は行動を起こした。

けれど予想外の阻害が、そこにあったのだ。

「どうしたの?」

先ほどと同じ台詞を、今度は裕璃が呟く。

焦って出してしまった自分より幾分小さめのその声に、彼は苦笑いしながら答える。

「いや…たいしたことじゃないけど…。」

「何?」

「手が…ね?」

「手?」

裕璃は彼の言葉を聞いて、思わず彼の手を見る。

しかしそこにあったのは普通の、いつもと変わらない彼の手だ。

彼が負ったのは肩だけであるし、本当にいつもと変わりは無い。

裕璃が不思議に思いながら彼の手を一生懸命見ている姿を見て、修司は慌てて訂正を入れる。

「いや、俺のじゃなくて…この子の。」

答えにしたがい今度は少女を見つめて、

「あ…。」

裕璃は小さく声をもらした。

修司の腕の中に、すっぽりと納まるくらいの小さな少女。

そんな小さな少女の手はさらに小さくて、彼と少女自身に隠れて見えなくなりそうだった。

しかし、裕璃は確かに確認した。

少女の手が、しっかりと修司のシャツの裾を握っているという事を。

「どうしようね…ベットに寝かせてあげないと可哀想だし…。」

修司はそう言いながら、苦笑いを浮かべる。

自分の服を掴んで安心してくれるのは構わない。

けれどそのまま寝てしまったとあっては、さすがの彼でも困ってしまう。

服から手を外すこともできないし、そうなっては自分はここから動くこともできない。

そんな修司に、裕璃は慌てて声をかけた。

「どうするの?」

「ん〜…やっぱり一緒に寝るしか…無いかな…。」

でも女の子にそんな事をするのは失礼かもしれないし。

修司はそんな事を悩みながら、これからどうするか思案をする。

けれども、そんなことは裕璃にとっては些細なことだった。

「いや、そういうことじゃなくて…。」

「え?」

裕璃の言わんとすることが分からず、疑問の声を上げる修司。

そんな彼に対して、彼女はとても真剣そうな瞳で見つめてくる。

修司はそんないつもの優しげなものとは違った彼女の表情に、僅かに頬を上気させる。

しかし、そんなことはつかの間の事だった。

「傷の手当て…どうするの?」

「…あ。」

そういえば、そうだ。

彼が怪我をした部分は、肩の噛まれた部分のみ。

両手とも怪我を負った裕璃に比べ、面積的にはそれほど多くは無い。

しかし、彼の肩には彼女の比で無いくらい牙が食い込んでおり、今でも血は出てきている。

まさかこんな状況でそのまま寝ることはできないだろう。

けれども自分の腕の中にいる少女は、自分のシャツをしっかりと握り閉めているのだ。

寝巻き用の首を通すだけの服を着ている為、これでは着替えは愚か手当てすらも自分ではできない。

「…ど…どうしよう…?」

修司は改めて事の重大さに気がつき、顔色を一変させた。

着替えられないのは、別にいい。

少々気は引けるが、シーツを汚す程度ですむだろう。

その辺りはヴァルス辺りに話を通せば済むことである。

しかし、傷の手当てとなると話は違ってくる。

今の時間は真夜中で、もう既にヴァルスも寝ているだろう。

こんな時間に起こすことは立場的にも気が引けるし、薬剤師の彼を呼ぶほど酷い怪我をしていないということも自覚している。

もしかしたらゼロならばこの時間に起きているかもしれないが、彼が自分の手当てなどしてくれるはずが無い。

そうなると自分でするしかないのだが、この状況ではそれも無理である。

どうするべきか、彼が大いに悩んでいると。

「…分かった。」

そう言って、スクッと立ち上がったのは裕璃だった。

「裕璃ちゃん?」

裕璃の表情には、何か決意のようなものが秘められていて、これから何かしようとしていることは分かる。

その何かが、自分にとってとても不都合なことのような気がして、彼は思わず彼女に声をかけたのだろう。

裕璃は戸惑いにも似た修司の視線を受けて、にっこりと微笑を返す。

「私が治療するから、ちょっと待っててね。」

今薬箱取って来るから。

そう言うと、彼女は善は急げという諺の通りに足早にドアの方までゆき、その外へと消えていった。

修司はそんな彼女の姿を、ただ呆然と見つめていた。

「えっと…。」

つまり。

彼女は彼の傷の手当てをすると言っているわけで。

彼が傷を負っている場所は、肩で。

その傷を見せるためには、彼は多少なりとも彼女に肌の一部分を見せなくてはいけないわけで。

「………。」

上の服が脱げなくて、良かったのか悪かったのか。

妙な気恥ずかしさを感じ人知れず顔を赤く染めた修司のことなど、勿論裕璃は知る術も無かった ――――



「…それで、手当てをしたら疲れて…寝ちゃったんだっけ。」

裕璃はそう呟いて、背伸びをした。

いつもと違う寝方だった上睡眠時間も少なく、あまり疲れが取れていない。

それでも高校一年生の部活を始めた頃に比べれば、格段に気持ちが良いと言えるだろう。

今回のはただの寝不足で、体力的な疲労はあまり無いのだから。

裕璃はそう思いながら、ベットの上方に視線を移す。

すると、そこにあったのは二つの影。

フェスティ族の少女と、それに寄り添うように寝ている修司だ。

昨夜結局少女の手を離すことも服を脱ぐことも無理だと知り、二人でそのまま寝てしまったのである。

裕璃は少しだけ移動し、修司とは反対の方のベットに寄る。

そしてそのまま膝立ちの姿となり、少女の顔をじっと覗き込んだ。

少女は一度起きた時とは嘘の様に、実に気持ちよさそうにすやすやと寝ている。

額に汗も、苦悶の表情も浮かべていない。

安心しているということだろう。

「…よかった。」

裕璃はほっと息を吐く。

少女の顔をみて、彼女も安心したのだろう。

そこに ―――――

「…裕璃…ちゃん?」

眠そうに呟かれた言葉が、裕璃の耳に届く。

彼女は少女から少しだけ視線を動かす。

目に映ったのは、今起きたばかりと言わんばかりに左手で目をこすっている修司だった。

「あ…ごめん、起こしちゃった?」

「いや、うん…大丈夫。」

そういいながら、修司は少しだけ上体を起こす。

何がどう大丈夫なのか裕璃には分からなかったが、とりあえず表情から読み取るとまだ眠そうで、

「…ごめんね。」

と、もう一度謝ってしまう。

そんな彼女に対して、修司はようやく多少頭が回ってきたのだろうか、

「うん…気にしないで。」

と、少しボーっとした様子のまま微笑んで見せた。

そんな彼に対して、裕璃も同じように微笑んだ。

裕璃の柔らかな表情を見ながら、修司はますます笑みを深くする。

起きてすぐにこんなものが見れるなんて、役得かもしれないな。

修司としては少し不純な、だけれど一般平均からすると随分とささやかな喜びを彼はかみ締める。

普段から感情が顔に出やすいタイプではあるが、寝ぼけているせいか今日は一段と分かりやすい。

しかし、そんな表情の差異も彼女はどうしてだか分からず、首をかしげる程度で終わる。

ある意味修司にとっては助かったと言えるだろう。

修司がほっとして、ベットの上に重心を取るために置いていた右手を取る。

その行動によって、少しだけベットが軋んだ。

「ん…。」

その瞬間、少女から声がもれる。

起こしてしまったのだろうか。

修司はまだ良く回っていない頭でそんな事を考えてしまい、思わずバッと身を避けてしまう。

が、それがいけなかった。

元々一人用のベットで、二人が寝ている。

うち一人が大きく動いたならば、積載量オーバーしているベットも大きく動くことが道理というものだ。

お陰でまだ殆ど覚醒していなかったはずなのに、少女は揺れを感じ取りゆっくりと目を開けてしまう。

先ほどの修司と同じく、左手で目をこすりながら上体を起こす。

「…眠い…。」

「うわ…ご、ごめんね!!」

少女が呟いた言葉に、思わず謝る修司。

その瞬間に、少女は彼の方を勢いよく見据えた。

「!!」

驚いたように、彼から飛び退る少女。

「きゃ…ッ!」

しかしその後ろには裕璃がいて、丁度彼女の顔が少女の背中にぶつかってしまう。

少女はそれにも驚いたようで、バッと後ろを振り返った。

「あ…えっと、大丈夫?」

苦笑いのようなものを浮かべながら、裕璃は少女の背で打った鼻を手で撫でる。

少女のまん丸な紫色の瞳が、さらに大きく見開かれる。

「どこか痛くした?」

裕璃は、少女の頭に手を伸ばした。

ビクッと体全体を揺らして、それを迎える少女。

やはり人間への怯えは取れていないのだろうか。

裕璃は苦笑しながらも少女へ差し出した手を引っ込めることなく、彼女の頭へと持って行く。

そしてそのままただ優しく、少女の頭を撫でた。

「…?」

「コブ…はさすがにできてないよね、私はそんなに硬くないし。」

完全に取りこし苦労だね、と裕璃は少女に笑いかける。

少女はその微笑に、頭を撫でられる心地よい感覚に思わず身を任せる。

しかし、少女の目はそれを捕らえてしまった。

「あ…。」

少女の目が裕璃のただ一点を見て留まる。

裕璃の伸ばされた方とは反対の左手に、少女の視線が集中する。

今はもう血で汚れていないシャツ。

けれども、その袖口からはしっかりと包帯が巻かれているのが動体視力が良い少女には見て取れた。

少女は慌ててもう一人の人物修司に視線を移す。

今見たものが信じがたかったのだろう。

しかし、少女が見たものは血で染まった彼の上着で、少女は思わず顔を歪める。

「…ご…ごめんなさい!」

少女はその場で、頭を下げる。

「ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさいッ!」

ベットに頭をつけるような勢いで、何度も謝る少女。

裕璃と修司は目を丸くする。

なぜ少女は自分たちに謝っているのだろうか。

確かに自分たちは彼女の看病をしたけれど、謝られるいわれなど無い。

そう思いながらも、修司は少女が自分を見た方へと視線を移す。

するとそこには昨夜少女に傷つけられた痕跡の血痕がはっきりと残っていた。

「あ…えっと、大丈夫だよ!」

修司は思わず、声を上げる。

少女はおそらく自分達の姿を見て、気がついたのだろう。

自分達に何をしてしまったのかということに。

けれど、修司はそのことについて罪を問おうとは思っていなかった。

少女にそんな行動を取らせた理由は、元は人間にあるのだから。

「こんなの怪我のうちに入らないし、全然痛くないし!」

修司は何か言わなくてはと思って、慌てて言いつくろう。

しかしその内容は少女を傷つけるものばかりだった。

二人の様子を見てしまった少女には、どれだけそれが酷いものなのかは分かる。

痛くないはずが無いと安易に想像できてしまうのだ。

少女はその大きな瞳に涙をためる。

自分が犯してしまった事に恐怖を抱いて。

「あああッ! な…泣かないでッ!!」

修司は大慌てで少女に言いつくろう。

確かに彼は少女を一度泣かせてはいる。

けれどあれは安心して出たであろう涙であり、今回は心配で流される涙だ。

根本的なものが違うのである。

修司はそのままの勢いで、少女の顔へと手を伸ばす。

そして少女が身を揺らすほんの少し前に、彼女の涙をその手で拭い去った。

「…?」

少女はそんな彼の行動にただビックリして、彼を見上げる。

そんな彼女の視線を受けて、修司は自分のした行動に少しだけ顔を赤く染めた。

「いや…あの、泣いて欲しくなかったし…その…いやだった?」

ゴモゴモと口ごもりながらも、それでも少女の目元から手を離さない修司。

そんな彼の手は、とても暖かくて。

少女の心に少しの安心を生み出させる。

なんとなく、そう本当になんとなくではあるのだが。

夜自分を受け止めてくれたこの人は、今涙を拭いてくれたこの人は。

悪い人ではないのではないかと、そう少女には思えたのである。

そう思っている少女を目の前にして、修司はさらに焦りを感じた。

少女は自分を見つめるだけで、何も反応を返してくれない。

返事をすることも、表情を変えることも、何も。

もしかしてまだ怯えさせてしまったのだろうか。

修司はそう思って、思わずこう口にした。

「それに…ほら、君はきっと笑ったほうが可愛いよ! …って…。」

なに言ってんだ俺は!

修司は自分が言った言葉に思わず頭を抱える。

少女を安心させたくて言った言葉ではあるが、これではまるで何かの口説き文句みたいではないか。

女性経験など皆無な修司にとって、自分が発した言葉はそうとしか思えなかった。

そんな彼の言葉に驚く少女。

少女もまたなぜ彼がそんな事をいうのかよくわからなくて。

彼に笑顔を見せたことなど無いのに、なぜそういいきれるのだろうかと思って。

それに、なぜ彼はそう言った事で色々悩んでいるのだろうと思って。

けれど少女には分かったことがあった。

それは彼が確実に、自分の事を心配してくれているということ。

彼は自分にとっては良く分からない人物だ。

けれど自分の事を心配してくれて、気遣ってくれる。

少女はそんな扱いを今まで人間に受けたことが無かった。

だから、素直に嬉しかったのだ。

彼が自分を心配してくれるという、そのこと自体が。

「…うん…。」

少女はポツリと返事を返す。

「え…?」

修司は思わず聞き返す。

少女の声は小さくて、照れて騒いでいた自分の声にかき消されそうな小さな声。

それで返事をしただけだと分かっていたけれど、思わず聞き返してしまったのだ。

しかしそんな彼に対して少女は嫌な顔一つせず、

「うん…!」

ともう一度返事をする。

二度目の返事は、彼が望んだ笑みと共に ―――――





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