第三章
 3 途切れた夢



「えっ…?」

裕璃は戸惑いの声をあげる。

目の前に広がるのは、空色の髪。

サラサラと揺れるそれは、絹の糸のようにつややかで絡まることを知らない。

髪よりも濃い蒼の瞳に、優しさを讃えさせて。

裕璃と同い年くらいであろう、少女。

白さが目立つ衣装を、これ以上無いほど綺麗に着こなした、清楚という言葉が似合いそうな少女。

裕璃の夢の中に出てきた、背中しか見えなかったあの女性。

そんな彼女が、裕璃を見つめていた。

裕璃は、そんな状況下に戸惑いを隠せない。

彼女に話しかけられる事など、思ってもいなかったのだ。

確かに何度も見てきた夢ではあるが、夢は夢。

けれど、考えたことも無かったのだ。

彼女と言葉を交わす日が来るなんて。

「あ…ごめんなさい。」

目の前の少女は、口元に手を当てて謝る。

その姿はとても優雅で、この神殿のような場所にとても似合っていた。

「私ったら人に名乗る前に名前を聞くだなんて…失礼ですよね。」

ご無礼をお許しくださいね?

苦笑しながら、言う彼女。

裕璃はその言葉に、呆然としながらも頷く。

すると、少女は綺麗な微笑を浮かべて、優雅に礼をする。

「私はエクレールと言います。
 …よろしければ、あなたのお名前もお聞かせいただけませんか?」

物腰柔らかに、丁寧に問う少女 ――――― エクレール。

そんな彼女の様子に、裕璃はハッと我に返った。

今彼女は自分に話しかけていることは、はまぎれも無い事実だ。

夢に出てきた登場人物に話しかけられることなど今に始まった事ではない。

裕璃は夢は多く見るほうだったし、当然その中に出てきた人と共に何かをすることは多い。

もちろん会話を交わした事もあるし、時には一緒に空を飛んだこともある。

違っているのは、現実の世界に存在しているかしないかだけ。

それだけの違いで話すことができないなどと、思った自分が変だと裕璃は思ったのだ。

「わ…私は…裕璃です!」

多少混乱しながらも、答える裕璃。

少女が名乗って、自分に話しかける。

例え夢の中といえども、何も返事しないのは失礼だ。

裕璃はそう感じて、今まで何の反応も返さなかった自分が恥ずかしくなる。

すると、顔が少々赤くなったであろう彼女を見てエクレールは笑みを深くした。

「そう、裕璃さんって言うのね…どうぞよろしく。」

「は…はぁ…。」

気恥ずかしい思いで一杯の裕璃。

おそらく自分を見て、面白そうに笑っているエクレールのせいだろう。

それは彼女にも分かっていた。

けれど、裕璃はそれに対して文句は言わない。

裕璃が優しいということもあるし、初対面でそんな事を言うのは失礼だという思いもある。

言葉をすぐ返さなかった自分の責任だと、思っている節もあるだろう。

しかし、それ以上に思うことがある。

確かに笑われていると、気恥ずかしい。

――――― けれど何故か嫌ではなかったのだ。

背中だけは数十回見ているだろうが、顔をあわせることはこれが初めて。

ましてや言葉など、先ほどの数回しか交わしていない。

そんな相手に抱くには、いささか変な感情。

笑われて恥ずかしいけれど、彼女ならば仕方が無い。

そう思っている自分に、裕璃はまた戸惑いを感じる。

自分は初対面の相手にこのような事を思うほど、社交的だっただろうかと思って。

「…こちらこそ、よろしくお願いします。」

裕璃は頬の熱は収まらないまま、はにかんで彼女に手を差し出す。

夢のだから、このように思えるのだろうか。

そう思いながら、自分の意思で。

するとエクレールは件の表情のまま、裕璃の手に自分のそれを重ねる。

そっと、けれど確かに触れ合う二人の手。

友好の印でもあるだろうその行為は、数秒間のあいだそのままで、どちらともなく離れていく。

手に残ったのは、お互いのぬくもりだけだった。

「―――― 不思議ですね。」

「え?」

不意に言われた言葉に、裕璃は疑問の声を返す。

一心に注ぐ彼女の視線の先には、繋がれていた手を握り締めたエクレールの姿。

「何が…ですか?」

裕璃が、心のままに質問する。

すると、エクレールは先ほどとは少し違う苦笑いを浮かべた。

「精霊さんと触れられるんなんて、思っていなかったから…。」

ちょっと、驚いてしまったの。

そう言って、その表情のままクスクス笑い出すエクレール。

しかしその言葉で逆に驚かされたのは、裕璃のほうだった。

「せ…セイレイサン?!」

焦りの声を上げ、目を丸くする。

すると、エクレールは「ちがうの?」という感情を込めて、裕璃を見つめる。

裕璃はそんな彼女に首を横に激しく振ることで、否定の意を表した。

そんなものになった覚えなど、裕璃にはなかった。

確かにここは夢の中だけれど、自分が自分であることは変わりが無い。

セイレイというものがなんなのか裕璃には分からなかったが、違うということははっきりと分かっている。

だから誤解を与えないように、裕璃はいつもならありえないほど大きな反応をしてしまったのだろう。

それがエクレールを驚かせることになる。

あまりに必至な裕璃を見て、エクレールは身をビクっとゆらした。

「あ…ごめんなさい!!」

ついつい大声になってしまう裕璃の声。

また驚かせてしまっただろうかと、思わず手で口元を隠す。

彼女を驚かせてしまったのは、自分だ。

自分がその前に驚かされたことなどすっかり忘れ、申し訳ないと思ったのだろう。

そんな彼女の態度が、エクレールの顔に再び微笑みを宿らせる。

「いいのです、大声を出して驚いてしまったのは私の責任ですわ。」

だからお気になさらないで、とその表情のまま言う彼女。

陽だまりのように暖かな笑顔。

そんな彼女の表情は、まるで蕾だった花が咲くように晴れやか。

裕璃はそんな可愛らしい微笑みに、同じ表情を浮かべた。

どうやら気にも留めていないようだと分かって、安心したからだろう。

二人は、そのまま互いに見詰め合って笑う。

それがなんとなく、楽しかったから。

「――――― でも。」

「?」

先にその笑顔を崩したのは、エクレールの方。

暖かな笑顔とは全く違う感情に彩られた、真剣な表情を浮かべる。

裕璃はそんな彼女の変化を不思議に思い、小首を傾げる。

「あなたは…誰なのですか?」

「え?」

「精霊…ではないのでしょう?」

貫くような感覚を伝える、彼女の瞳。

エクレールは裕璃の先ほどの答えを信じた。

けれどそれ以外の答えが彼女には見つけられない。

だから、このような表情を取ってしまうのだろう。

彼女が何者であるか、知りたかったから。

「…私は…人間ですけど…。」

裕璃は少々心配そうに、エクレールを見つめる。

何故彼女がそんな表情をするのか、分からなくて。

すると、エクレールの表情が驚きに染まった。

「人間? ――― 私と同じ…ですか?」

「? はい。」

エクレールの表情にに、今度は戸惑いの色が広がる。

それは裕璃も一緒だった。

質問の意図が、分からなかった。

自分は人間のいでたちをしているだろうし、他の人からもそう見えるだろう。

そんな自信だけは、持ち合わせていた。

それなのに、彼女は自分を ――― 精霊だと疑う。

何故そう思われているのか、裕璃には全く意味不明だった。

「だって…それならばなぜ…。」

「え?」

途切れるように紡ぎだされる、エクレールの言葉。

裕璃は、それにまた疑問の声をもらす。

疑うようなではなく、続きを促すようなそんな声。

エクレールもそれを感じ取ったのか、ゆっくりと唇を動かした。

「…何故、あなたは突然消えてしまうのですか?」

「…?」

「いつも私を見ていたのは…あなたなのでしょう?」

―――― 瞬間、風が二人の頬を撫ぜた。

驚きの感情を隠せず、顔に表す裕璃。

エクレールは、今まで裕璃を見たことがない。

それは彼女が今まで見た夢の中で実証されている。

それに、今まで見てきたのは同じ夢だと裕璃は思い込んでいた。

何度も何度も、同じシーンを見ている。

風景も出てくる人物も、服装も変わらない。

それは同じ光景だと思わせるには、十分な材料だった。

しかし、実際は違っていたのではないだろうか。

空を見つめる顔の角度が。

風に揺れる髪の一房一房が。

降り注ぐ光の強さが。

彼女の分からない程度に、少しずつ違っていたのならば自分が勘違いしていたことも理解できる。

裕璃は、確かに同じような風景の夢を見ていた。

しかしそれは同じように見えて、全て違う夢だったのだ。

「――――― 気がついて…いたの?」

裕璃はその表情のまま、エクレールに問いかける。

「はい…。でも、気付いて振り返ろうとした時には…、」

いつも、気配が消えた後でした。

残念そうに言う、エクレール。

それで、裕璃は納得がいった。

自分が彼女の顔を見たのは、これが初めてだ。

彼女が何か行動を起こす前に、裕璃は夢から覚めている。

それから気配を感じ取ったエクレールが、後ろを振り返る。

しかし、もはやそこに自分の痕跡は何も無いだろう。

彼女がいくら存在に気付いていても、裕璃を知る術は無い。

自分が見た夢と同じ数だけ、エクレールはそれを繰り返す。

それだけ同じことがあっては、気のせいではすまない。

不可思議なものでもいたのではないかと思うのが道理かもしれない。

精霊というものは、そう言ったものなのだろうかと裕璃は推測をつける。

「そっか…ごめんなさい。」

裕璃は謝りの言葉を、風に載せる。

彼女の姿を見れなかったのは確かだが、彼女も自分の姿を見たことがなかったのだろう。

何度も何度も繰り返しては、やきもきしてしまう。

それは裕璃自身が全く同じ状況に追い込まれていたから、よくわかった。

彼女と自分は、立場が似ている。

それを肌で感じたから考えるまでもなく出てきた、謝罪の言葉。

エクレールはそんな彼女の言葉を、驚きの表情で受け止める。

しかし、それも一瞬のこと。

すぐに笑顔を取り戻した彼女は、クスクスと笑ってさえいた。

「お気になさらないで下さい。 少し、不思議に思っていただけですわ。」

「でも ―――――――」

俯いて、彼女の言葉を聴く裕璃。

長い間気になっていた人の正体がつかめず、思い悩む。

それはエクレールが抱いていたものでもあるし、自分が持っていた感情でもあった。

同じ感情を互いに抱いていたと知っているからこそ、裕璃は彼女に謝罪した。

それが長い間続けは続くほど、辛くなるものだと分かっていたから。

「―――― それでは。」

と、そんな彼女の頭上から少しだけ明るさを宿したエクレールの声が響く。

裕璃はそれに反応して、視線を上へと持ち上げた。

すると ―――――

「どうしてココに来たのか、教えて下さいますか?」

じゃないと、許して差しあげませんわ。

そう言いながら、微笑むエクレール。

裕璃はそんな彼女をぽかんと見つめた。

確かに『気にしないで』という意味合いの言葉は言ったが、まさかこのような返し方をされるなんて。

裕璃はそんなこと、思ってもみなかった。

「裕璃さん?」

エクレールが裕璃の名前を呼ぶ。

顔をずいっと近づけて、通算二度目となる呼びかけ。

しかし呼ばれた本人は、そんな彼女をあっけらかんと見つめるだけ。

今まで彼女に抱いていた、清楚そうだとかおしとやかそうだとかいうイメージ。

それが少しだけ、払拭された気がしたから。

「あ…はい!」

少し遅れながらも、元気よく返事をする裕璃。

確かに今、彼女の印象の変化に戸惑いはする。

夢の中で背中を向けた彼女は淋しげで、どこか儚げ。

そのイメージが少しだけ壊れたけれど、裕璃にとっては嫌なものではなかった。

嬉しそうに、彼女は微笑むから。

淋しさをけせたなら、それでいい。

裕璃はそう思いながら、エクレールに対してまた微笑みを浮かべる。

すると、彼女もまた似たような表情をした。

安心したかのように。

しかし ―――――――――――――

「私がここに来たのは ―――――――ッ?!」

夢の中、だから。

そう言葉を紡ごうとした、裕璃。

しかし、それを発する前に、彼女の言葉はぷっつりと途絶えた。

言葉を止めてしまうような ――――――― 激痛。

それが突然、彼女の身体に今も奔る。

「どうしたんですの…ッ?!」

不思議そうな顔を、浮かべていたエクレール。

それがたちまち、驚愕の色に彩られた。

彼女の目には、信じられないものが映ったのだ。

今まで表情をくるくる変えていた裕璃。

特別なことは、何もしていない。

それなのに、何故か彼女の右腕が ―――――― 血に染まっていた。

「何…これ…?」

裕璃は血が溢れる場所を、ただ見つめる。

激痛という前兆だけで、流された血。

どこかにぶつけたわけでもないのに、止めどなく流れる。

そんな突然のことに、裕璃の思考はついて行かなかった。

それはエクレールも同じ事。

今まで話していた相手が、突然傷つきだす。

あまりに突然の事だったから、動くことが出来ない。

動いていれば出来たことが…確かにあったのに。

しかし頭が真っ白になった彼女には、あのような考えも浮かばない。

「痛ッ!!」

またも突然感じた、新たなる痛み。

それは同じ腕に感じた、引っかかれたような痛さ。

裕璃は反射的にギュッと目を瞑る。

覚悟も何もしていなかった状況では、平静に装うことも出来ない。

傷の痛みだけが身体に残って、他の感覚が白濁する。

意識が遠のいているのだろうか。

そうは思っても、何も行動しようとしない裕璃。

行動するだけの、気力が彼女にはなかったから。

「裕璃さ ――――――――」

自分を呼ぶ、エクレールの声。

悲痛なその叫びは、通常時に聞いていたなら自分も辛く思えるほど。

しかし、裕璃は何も言葉を返さない ―――― いや、返せなかった。

裕璃の意識が遠のくと共に、この場所との繋がりもなくなってゆく。

この場所の『裕璃』意識はなくなり、代わりに現実世界で寝ている『裕璃』の意識が覚醒しだす。

『裕璃』という存在は、世界で一人きり。

例え夢の中とはいえ、二つはいらない。

だから、この場から裕璃は消えて無くなった

――――――――――――――― 夢から覚めるために。



夢から覚めた裕璃が一番初めに見たのは ―――― 月だった。

夢の中とは違う時刻、夜。

それを象徴するものが、窓の外に浮かんでいる。

―――――― ああ、まだ朝じゃないんだ。

裕璃がそう思う前に、その音は鈍くそこに響く。


ガリッ!


「―――― ッ!!」

痛みを感じ、眉根を寄せる裕璃。

それと同時に、彼女は左腕に目を向けた。

すると、彼女の目に夢の中と同じ光景が映る。

血に染まった、自分の右腕が。

「何…?!」

何かで引っかいたような傷が、数え切れないほどある右腕。

その先に、この傷を作った原因がある。

裕璃はそれを見るために、視線を横へと移す。

すると、そこには予想外の事が起こっていた。

「え…あなた…。」

裕璃は、我が目を疑う。

彼女の視線の先にいたのは、一人の女の子。

修司が森から拾ってきたという、フェスティ族の少女だ。

自分よりもいくつも年下であろう子供。

その子が目を覚まして、自分を見つめている。

普段ならばホッとしていたかもしれない、その状況。

しかし、今は彼女に驚きしか感じさせなかった。

自分を見つめながらも、暗さから表情を伺うことは出来なかったから。


ガッ!


「い…ッ!!」

裕璃の右手に、またも痛みが走る。

それは彼女の目線の先にいる少女から送られた、爪の斬撃。

フェスティ族の身体は犬や猫に似ている。

耳も尻尾も生えているし、爪も伸びている。

その爪が裕璃を襲っているのだ。

「やめ…!」

裕璃が拒絶の声を上げ、途中で途切れさせる。

視線が少女から外すことが出来ない。

顔には様々な、傷の跡。

その合い間を縫って垂れる、一筋の赤。

顔の傷は殆どふさがっていて、傷がついていた場所も布で隠されている。

それではその赤は ――――― 血は誰の物なのだろうか。

「ウゥゥゥゥゥッゥ!」

少女の口から信じられないほど、低い唸り声が上がる。

表情は月明かりで薄暗いため、口元以外は殆ど見えない。

その口から見え隠れする二本の刃から、血が滴り落ちた。

自分の唇や口の中から出たものでは無いと明らかに分かるそれ。

誰かを噛んだ時についたのだろうと分かる血。

―――――― それは、先ほどまで裕璃の中に流れていたものだった。

「…ッ!!」

痛みが再び、全身を駆け巡る。

少女が彼女の腕に、牙を立てたのだ。

寝ている間につけられたのだろう、歯の跡。

今も血が滴り落ちているその場所のすぐ下に、少女は勢い良く噛み付く。

「や…めてッ!」

裕璃は悲痛な声を上げながら、少女を力一杯押し返す。

混乱した頭で出来ることは、それだけだった。

しかし、少女の力は彼女が思ったよりも強い。

いくら押してもびくともしない。

どうして、と疑問に思った彼女の頭にある言葉が蘇る。

人間とフェスティの間では身体能力に差がある、と聞いた事を。

それは力も、同じだった。

「グゥゥッ!」

「ヤッ!」

牙に今まで以上の力がこもる。

それと共に失われてゆく、裕璃の血。

突き刺さって出来た傷口が、徐々に広がってゆく。

それと同時に訪れる、耐え難い痛み。

裕璃はそれに目を瞑りながら、耐える。

「は…離れて…ッ!」

今度は少女の胸を押す、裕璃。

それは傷の痛みからだろうか、弱弱しい抵抗。

必至に押しているのだろうが、力は殆ど入っていなかった。

それは身体的に強者な少女にも同じように感じられただろう。

―――――――― しかし、少女は小さな抵抗にすら反応をする。

「グァウッ!!」

突然大声を上げる、フェスティ族の少女。

牙が裕璃の肌を切り裂きながら、離れて行く。

その瞬間に感じた痛みは、一体どれほどであったのだろうか。

悲鳴すら上げられない裕璃にしか、分からないだろうもの。

しかし、裕璃はその時薄く目を開けてさえいた。

確かに痛みに耐えるために、歯を食いしばっている。

それでも足りなかったのか悲鳴は小さく空気を揺らしたが、それだけだ。

痛さで左手が支配されて、全身に広がっている。

しかし、彼女は目を開けていなければいけなかった。

これ以上、痛みを覚えないために少女から離れなければ ―――――

混乱した裕璃の思考では、それ以外に考えられなくて。

裕璃は少女から距離を取ろうと、立ち上がろうとする。

―――――――――― しかし。

「キャッ…?!」

裕璃の服が、少女の手につかまれ赤に染まる。

それは裕璃の右手を傷つけた時についた、彼女の血の色。

それが彼女の服に、赤黒く侵食してゆく。

しかし、そんな事を見ているほど、裕璃に余裕は無かった。

自分の身体が、少女に引き寄せられたから。

彼女よりはいくらか重いであろう、裕璃の身体。

少女はそれを片手で軽々と引き寄せる。

すると、裕璃の眼下に少女の顔が見えた。

月明かりに、ぼんやりと映し出された彼女の表情。

裕璃はその瞬間、抵抗すら忘れる。

少女があまりに意外な表情をしていたから。

彼女が思っていたものとは、全く別の表情を。

――――――――― それが、命取りだった。

裕璃の身体から、力が抜ける。

痛みに強張らせた身体が、緊張していた心が一瞬だけ緩む。

その瞬間を少女は見逃さない。

少女はもう一本の手を、裕璃の胸元に持ってゆく。

血に染まりつつあるその場所を、荒く掴む。

裕璃はそれに気がついて、慌てて身をよじろうとした。

だが、もう遅い。

次の瞬間、彼女の身体は宙を浮いていた ―――――――



「…はぁ…。」

一人部屋にしては少々大きいであろう部屋に、ため息が響く。

いつもならば他の部屋からの物音が聞こえてくるのに、今はそんなことは無い。

時間が夜 ―――― その上深夜であるから、起きている人も珍しいのであろう。

「目…覚めちゃったな…。」

彼の乾いた笑だけが、広がる。

最近、修司は眠りが浅かった。

初めに眠るのにも時間がかかるし、途中で起きてしまうことなども多々ある。

「情けない…。」

手で顔を覆う、修司。

これも自分の心の弱さが引き起こしたんだろうと思って。

大体、どんなに悩んでも前に進んでいないのだ。

永遠と答えが見つけ出せないまま悩むだけ。

それでは、意味が無いというのに。

「…とりあえず…水でも飲もうかな。」

気持ちを落ち着かせて、それで寝よう。

修司はベットの上から起き上がり、上着を羽織る。

そしてそのままドアの前まで行き、ドアノブをあけた。

目の前に広がるのは当然廊下で、修司は下へ降りる階段を目指す。

修司の部屋の近くにあるそれは、明かりが無くとも位置ぐらいは分かった。

なるべく音を立てないように、ゆっくりとそれを下る。

階段の近くにキッチンがあるし、別に急ぐ理由も無い。

だから出来るだけ他の人の迷惑にならないようにと、一歩一歩確実に進んだ。

万が一踏み外して転げ落ちるなんてことになったら、それこそ迷惑だから。

修司は手すりを使いながら、階段をくだり終える。

リビング兼キッチンへの扉は、すぐそこだ。

修司は目的の場所に行くための扉に、手をかける。

「…――――――?」

ドアノブをまわそうとした、修司。

しかしその行為は、突然ピタッと止む。

静けさに包まれた、この館。

何も物音がしないし起きている人は ――――― いたとしてもゼロくらいだ。

それなのに、彼の耳に何かの声が聞こえた。

修司は耳の感覚を、研ぎ澄まさせる。

しかし、今度は何の音もしない。

「…気のせいかな…?」

そう思って、修司はドアノブを回す。

「キャッ…?!」

小さな悲鳴が、廊下にこだまする。

修司は再度、動きを止めた。

「裕璃…ちゃん?」

それは彼と同居している女の子 ――――― 裕璃の声。

何度も言葉を交わしてきた相手の声だ、間違うはずも無い。

それゆえに、修司は疑問に思う。

なぜ、彼女の悲鳴がするのだろうかと。

修司はドアノブから手を離し、声のした方向を見つめる。

自分の方が裕璃よりも先に寝てしまったから、その後の彼女の行動は分からない。

部屋に戻ったのか、それとも残ったのかも。

この声は空耳ではない。

修司には何故かそんな確信があった。

だから、彼の身体は勝手に動いた。

彼女の声がしたのは、間違いなく一階。

怪我をしたフェスティ族の少女を保護している、あの部屋からだろう。

修司は迷うことなく、部屋へと歩みを進める。

走ることはしないが、出来るだけ急いで彼女がいるだろう一番奥の部屋へ。

胸騒ぎがしたから。

何か悪いことが起こっているような焦燥が、彼を蝕んでいた。

だから彼はそこへと急ぐ。

すると ――――――――――――――――


ダンッ!


何かを叩きつけたような音が、静寂の中に響き渡る。

「うぁ…ッ?!」

それと同時に響く、裕璃の苦痛の声。

ついに修司は走り出す。

彼女のそんな声を、今まで聞いた事が無い。

自分が助けられなかったあのときに、もしかしたら聞いていたかもしれないもの。

しかし、それは自分以外の人によって守られた。

それなのに、彼女は今確かに傷ついている。

そう思うまえに、身体は件の部屋のドアノブを掴んでいた。

素早くドアノブを回す修司。

いつもの彼からは想像がつかないような、乱暴な開け方をする。

すると彼の目の前に信じられない光景が広がった。

まずドアを開けて気がついたのは、血の匂い。

少女が負っていた傷のものではなく、たった今流されたようなそんな血の匂い。

修司は慌てて、その血の匂いが濃く感じる方向を見る。

―――― 彼は、目を見開いた。

ある意味予想通りのその光景。

しかし、その予想を信じたくなかったのも事実。

そこにいたのは、裕璃だった。

服装は、昨日見たままのもの。

おそらくここにそのまま泊まったのだろう。

髪の毛もいつものポニーテールのまま。

床に前かがみになって座っている。

壁に何かを叩きつけたような音の正体は、おそらく彼女なのだろう。

しかし、今の彼にはそんなことどうでもよいことだった。

いつもの状況で彼女が背中を打ってしまったら、彼は必要以上に心配していたかもしれない。

だが、それ以上に大変なことが彼女の身に起こっていた。

裕璃が左手で押えている、右手。

そこから大量の血が流れていた。

一箇所から少量流れるのではなく、右腕全体を赤く染めるほどの血。

それがぽたぽたと落ちて、フローリングの床を紅く染めていた。

「――――― 裕璃ちゃんッ?!!」

大声を上げて、彼女に駆け寄る修司。

肩を両手で抱いて、彼女の顔を覗き込んだ。

すると裕璃は壁にぶつけられた衝撃からか、焦点の合わない目で彼を見つめ、

「しゅ…うじ君?」

と、いつも以上にか細い声を出す。

弱弱しく笑う裕璃。

修司はそんな彼女を見て顔を歪めながらも、再度右手に視線を移す。

すると、彼の目に映ったのは裂傷だった。

何かに引っかかれたような傷が、服ごと彼女の左腕に幾つもつけられていて。

そこからジワリと血がにじみ出ている。

しかし、それは全体から見てもごく少量の血。

彼女の右腕を染めていたのは、彼女の左手が抑えている場所だろう。

彼は少々乱暴に、その手をどかす。

その瞬間、修司は我が目を疑った。

その場所にあったのは、二つの穴。

他のどの傷よりも深く彼女の肌をえぐっている。

まるで何かに噛み付かれたような、そんな痕。

「まさか…。」

修司は、後ろを振り向いた。

そこには裕璃が投げられたのであろう、血の痕跡がぽつぽつと続く。

床に、ベットに ――――――― そして、彼女を噛んだ少女の服に。

それはまるで犯人を暴くように、印をつけていた。

牙にこびりついているのは、裕璃のものだろうか。

唸り声を上げるその牙はいまだ乾いていなく、手も汚れたまま。

月の光が、少女を淡く ――― そして妖しく照らしていた。

「な…んで…?」

驚きを隠せない、修司。

彼が保護した少女は、傷をたくさん負っていて森に倒れていた。

誰かに傷つけられたのだろうが、今は傷つけた方。

なぜ彼女がそんな事をするのか、彼には分からなかった。

「グルルルルル…。」

人間のものとは全く違う、獣のような唸り声。

修司はそんな少女から、裕璃を隠すように両手を広げる。

少女が何をしたいのか、彼には分からない。

けれどこれ以上裕璃を傷つけさせたくなかった。

その状態のまま、ジリジリと少女に近づく修司。

少し距離をとったほうが裕璃を守りやすいだろうし、少女の表情も見えやすくなる。

顔色を読み取ることに長けているわけではないが、そうするより他無い。

そう考えた修司が、自分を捕まえようとしていると思ったのだろうか。

少女はベットから跳ね起き、片手をシーツの上につく。

今にも食ってかかってきそうな、その体制。

しかし修司はそれに怯えることも無く少しずつ少女に近づいた。

その場にいただけでは、何も始まらない。

何かしなくては、状況は変わらない。

それを彼も分かっていたから。

「…修司君ッ?!」

裕璃の叫ぶ声が、部屋にこだまする。

それは少女が彼に飛び掛った直後に発したもの。

修司の耳に遅れることも無く届いた、注意を促すような声。

しかし、彼は少女の突進をよける事は無く ――――――

「――――― ッ!!」

苦痛の声を上げようとする唇を、歯で食いしばり耐える修司。

飛び込んできた少女を、捕まえるように抱きしめる。

少女の歯が自分の肩に食い込むことなど、構いはしなかった。

この状況では、この方法が一番適していると思ったから。

少女を捕まえることも出来るし、裕璃にこれ以上負担をかける事も無い。

自分が犠牲になって、それで裕璃を助けられるなら構わない。

激痛が伴いはするが、彼女を思えば耐えられないものではなかった。

「こんな――――― …の…?」

修司は彼女に大丈夫だと伝えようと声を出し、途切れさせる。

自分が感じた感覚が、信じられなくて。

裕璃を助けたいと思ったことが、では無い。

それは彼女と話すうちに自然と抱いた感情であったし、否定する気持ちも初めから無い。

彼が不思議に思ったのは、感情のような不安定で間接的なものではなくてもっと物理的なもの。

自分が腕で閉じ込めている、少女からのものだった。

一瞬修司はその感覚に戸惑いを感じる。

しかし、すぐにそれを確認するために少女をより深く抱きしめた。

「ゥゥゥゥゥゥッ!!」

唸り声を強めながら、修司の肩にさらに食い込む少女の牙。

修司は痛みを感じながらも、今の自分の行為をやめない。

すると、彼の思ったとおりの反応がそこにあった。

裕璃や自分を、牙や爪で傷つけた少女。

その彼女の身体が ―――――――――――― 震えていた。

カタカタと、小さくではあるが震える少女。

何かに怯えているような、そんな反応だ。

不思議に思う修司の頭に、ある言葉が蘇る。

本人の意思とは無関係に強制労働させられる、フェスティ族。

全体から見られた傷跡が、彼女がそのように扱われていた事を物語っている。

そのことで、少女が人間に恐怖心を抱いているとしたら。

そう考えれば、今の状況も納得がいった。

眠りから覚めて、近くに人間がいる。

説明も何もしなかったのだったら、少女は人間を ――― 裕璃を自分を捕まえた人間だと思うだろう。

どこかから逃げてきたのか、捨てられたのかは分からない。

しかし少女が人間を ――― 自分を傷つけるものを嫌っているのは確かだろう。

また何かされる前に、逃げ出す。

そう思うことは、自然な考えでは無いだろうか。

修司は頭に手を回して、少女を固定する。

もっと強く捕まえられるのかと思ったのか、牙が肩に刺さった。

しかし、彼は見逃さなかった。

少女が頭に手を置いた瞬間に、大きく震えた事を。

「…ゴメンね…。」

「?!」

少女の身体が、一層大きく揺れる。

修司の声と、頭を撫でられているという感覚に。

そんな事をされたことがなかったのだろうか、その動揺は大きい。

しかし、修司はその行為をやめなかった。

「ゴメン…。」

再び、謝罪の言葉を述べる彼。

彼女に酷い扱いをしてきた、人間の変わりに。

怖がらせてしまった、自分達の行いに。

彼は何もしてはいなかったが、彼女を助けたいと思ったのだから。

自分が謝ることで、少女が安心してくれるならいい。

修司はそう思ったのだ。

「辛かったよね…ゴメンね…。」

何も知らなくて、ゴメン。

傷の手当ても出来なくて、ゴメン。

すぐに分かることが出来なくて、ゴメン。

そんなたくさんの謝罪の気持ちが、彼の口から、身体から溢れる。

それは少女の身に、確実に広まってゆく。

実際に食い込ませていた牙が徐々に抜けていたし、強張り震えていた身体も少しずつ収まってゆく。

修司の言葉に、少女が心を開いてゆく。

「ゴメン…。」

修司が三度、謝罪をした。

その瞬間に、彼の身体から牙が抜かれる。

ブツッ…と嫌な音がしたけれど、修司が顔を歪めることは無い。

自分の顔を覗き込んでくる少女に、そんな表情を見せたくなかった。

彼女を安心させるためにも、笑顔でいたい。

修司はそう思って、今までのどの笑顔よりも綺麗に微笑んで見せた。

「…もう、大丈夫だから。」

修司はそっと、少女に語りかけた。

初めて見た少女の瞳は、怯えの色に染まっていて。

動向が開いた金褐色の瞳が、徐々に納まってゆく。

変わりに涙が浮かんできて、少女の瞳を潤ませた。

「僕が…僕たちは…君に何もしないから…。」

だから、安心して?

優しく、子供に語り掛けるように言う修司。

その瞬間に、少女の瞳から涙が溢れる。

言葉の通りに、安心したのだろう。

ぼろぼろと、次々にあふれ出す涙。

修司はそれを、噛まれたほうとは別側の肩に抱き寄せることによって拭った。

頭をぽんぽんと、叩いてあげる。

その次の瞬間 ―――――――



――――――――――――――――― 少女の泣き声が、夜半の静寂に響き渡った。





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