第一章
3 涙と決意
残った三人はその出来事にただ呆然としていた。
言われた本人も、見ていた二人も。
彼らはしばらくそのままでいたが、ふと、ヴァルスが我に返る。
ゼロとの付き合いが一番長いからであろう。
「…裕璃、すまない。…ゼロ!!」
彼は裕璃を見て、ゼロが出て行ったドアの方へと走って行き、今度はバタン!!…と扉が閉められる。
後に残ったのは、裕璃と修司。
彼らはまだ、ドアの方をただ見つめていた。
裕璃より少し早く我に返った修司は少し離れたところにいる、ベットの上に座っている裕璃を見た。
彼女はまだ呆然としていて、ドアの方を見つめている。
修司は、彼女に気が付かれないように、そっとため息をついた。
確かに、今ゼロを追えるのはヴァルスただ一人だけれども、こちらも自分にはとても荷が重い役割だ、と思って。
「(ヴァルスさん…、俺が女の子あんまり好きじゃないって、覚えてるかな?…)」
まぁ、そういう事を言っている事態ではないことぐらい、修司には分かっていたが。
先ほどは同郷のものだと知って嬉しくてあんな風に近くに寄ったが、女性―――――特に自分と同年代ほどか十歳ほど年上くらいの年齢と離すのは彼にとってはかなりの苦痛である。
理由は、簡単に言うと一種のトラウマだ。
「…えっと…東条…さん?」
修司は、自分に持てる限りの勇気を総動員して、彼女に話しかけた。
その瞬間、
裕璃は、ビクッと肩を震わせた。
「(…怒られる…かな。)」
それとも、愚痴の一つでも言われるのだろうかと、修司は思っていた。
自分はゼロではないが、彼女にとっては仲間のうちの一人だと思われているだろうから。
しかし、裕璃の行動はどれとも違った。
裕璃は、彼の顔を見ながら一筋の涙を流した。
ヴァルスは部屋を出たあと、廊下を左へと曲がり走る。
そして行き着いた先にある階段を、迷うことなく上の方へ続く方を選らぶ。
彼は確信していたのだ。
きっとゼロはあの場所にいるということを。
階段を上りきった先にあるのは、書庫だ。
最上階であるはずのそこなのに、彼はさらに本棚と本棚の間にある、上のほうの本を取るためのはしごの一つをさらに上る。
その天井は普通に暮らしている分にしては結構な高さだったが、書庫としては少し低め。
すぐに階段を上り終えてしまう。
彼はそこから片手を伸ばして、天井につけた。
意識を、その一点に集中する。
その瞬間、彼が触れたその部分が、ほのかに光りだす。
やがて、時が経てば経つほどその部分は光を増し、やがて魔方陣を姿を形作る。
そしてそのまま、光は四角形に広がり、そのまま定着する。
彼はそのまま、はしごを上り続ける。
天井にぶつかる、そんな距離に来たと言うのに彼はそのまま先へと進む。
すると、彼の頭はそのまま光の中へと吸い込まれていく。
「…この感覚は、あまり好きではないな…。」
ヴァルスは光に包まれて言いながらも、そのまま進む。
すると一秒も経たないうちに、彼の視界から光が消えた。
先に広がるのは、青空と、書庫の上に位置する屋根だった。
彼は屋根の上に手を掛けて辺りを見る。
「…ゼロ。」
彼の捜し求めていた人物は、少し離れた右の方に寝そべって煙草を吸っていた。
ゼロはチラッとヴァルスに視線を移してから、煙草を人差し指と中指の間に挟めて持ち上げる。
フィー…と、
彼の口から紫煙が昇った。
「…やっぱり来やがったか。」
彼の声には、隠れもせずに呆れが含まれていた。
裕璃はただ泣いていた。
当然だろう。
彼女にとっては突然の出来事で、多くのものが一瞬のうちに手の届かない遠くへ行ってしまったのだ。
学校も、家も、それにかけがえのない家族でさえも。
悲しくないはずは、ない。
「…え?!ちょ…東条さん?!」
しかし、裕璃のその様子に修司はさらに焦っていた。
女の子が泣く、なんてことは彼にとって予想外のことだったのである。
どんな女を見てきたんだと言うことなかれ。彼にとってはごくごく当たり前の事なのだから。
「どうして…?どうして私なの…?」
裕璃は右手を抱え込むようにして、指輪をいっそう強く握る。
今となっては自分の着ているものと、この指輪だけが彼女の世界へと繋がるものだ。
それに縋りつきたい、という気持ちがあるのだろう。
何より、それは自分の妹とのおそろいの品でもあるから。
「…愛…璃ぃ…。」
裕璃はたった一人の妹の名前を、そっと呟く。
修司はその様子をただ見ていた。
見ていることしか出来ずにいたのだ。
「…。」
だけど。
泣いている裕璃は本当に悲しそうで。
痛ましくて。
自分が何かしてやれないか、と思って。
彼は無意識に裕璃との距離を縮めていた。
そしてそのまま、頭の上に手を載せてそっと撫でる。
「…?」
裕璃はその感触に、そっと修司の方へと瞳を向けた。
その瞳は、涙で濡れていて。
もともと整った顔立ちの裕璃に、とても映えていて。
綺麗だ、と素直に修司は思った。
「…あの…?」
修司は、思わず手を引っ込める。
そして、彼はそのまま顔を赤くした。
自分は、今まで一体何をしていたのだろうと。
自分は、何故一瞬瞳を奪われたのだろうと。
自分は女の子が嫌いだというのに。
裕璃は、そんな修司の困惑した様子を見つめる。
そして、彼女はあることに気がついた。
「あ…ごめんなさい。」
「…え?」
確かに目の前で知らない人に泣かれたら、誰でも戸惑うだろうと思って彼女は謝る。
しかし裕璃が発した言葉に、修司はますます驚く。
彼にとって、彼女は謝るようなことを何もしていないではないと思ったからだ。
それなのに何故謝るのか、修司には分からなかったのだ。
「…目の前で泣かれたら…困りますよね?」
裕璃はベットから降りて立ち上がった。
「ごめんなさい。…外、行ってきます…ね。」
そして、修司の方を向いて笑顔を向けた。
でもその笑顔はとても悲しそうで、見ただけで自分までもが辛くなってしまうような笑顔で。
修司は意を決して、歩み去ろうとする裕璃の腕を掴んだ。
「…御崎く…」
「泣いても、俺はいいと思う。」
裕璃は、思わず修司の方を振り向いた。
出会ったのは、真剣な修司の瞳。
「突然、自分の住んでいたところから離されたんだもん、泣いても仕方がない…て俺は思うから、今は泣いてもいいと思う。」
それまでは、そばに居るから。
修司はそう言って、笑った。
裕璃は、その言葉に嗚咽をあげて泣いた。
泣いて、泣いて、泣きながら。
裕璃はどうして彼の笑顔にも悲しさが宿っているのかを考えた。
そして、思い出す。
彼も自分と同じ日本からやって来たのだということを。
彼だって、悲しくないはずはないのだ。
自分と同じ境遇なのだから。
でも、彼はもう泣いていない。
前を向いて、ちゃんと歩いているのだ。
「…そう…ですよね…。」
「え?」
裕璃はつかまれた右手の平を握りながら、思いを馳せる。
もし、ここに来たのが自分ではなくて、愛璃だったら。
きっと彼女は驚くだろうけど、泣きはしないだろう。
あの子は、強い子だから。
そして、きっとこう思うんだろう。
誰の助けがなくっても、自分で帰り方を見つけてやる、と。
裕璃は左手で、涙を拭った。
「…泣いてばかりじゃ、いけないですよね?」
自分は愛璃ではないけれど、愛璃の考え方には昔から酷く憧れを感じていた。
どうしてもネガティブな考え方を捨てきれない自分には、いつもポジティブな考え方を持つ愛璃がとても輝いて見えたから。
自分もこんな考えが出来れば、と思っていた。
でも、思うだけでは始まらない。
自分で変わる努力をしなければ、何も変わらないのだ。
「…御崎君。」
裕璃は自分より少し高い位置ある修司の顔を見上げる。
「…え?」
修司は、よく聞こえなかったのか、裕璃の目を見ながら問いかけた。
裕璃はそんな修司に、もう一度気づかせてくれた感謝の念をこめて言う。
「ありがとう。御崎君。」
とびきりの笑顔とともに。
修司は、そんな裕璃にまたも顔を赤くして、
「…えっと…修司…でいい…よ?」
と、それしか言う事が出来なかった。
ヴァルスはゼロのそばまで歩いて行った。
3階のさらに屋根の上であるのに、危なげなく。
そして、そのままゼロのそばに方膝を立てて腰掛けた。
ゼロはそんなヴァルスの様子には目もくれず、もう一度煙草をくわえる。
そのままお互いに、一言も発しない。
しかし、特に沈黙が重いというわけではなかった。
彼らには、これが普通だったから。
「…なぜ、あんな風に言った?」
しばらくしてから、ヴァルスが口を開く。
しかしゼロは依然として口を開こうとしない。
ヴァルスは、そんなゼロに対して答えを急かしたりしなかった。
ここで急かすよりも、何も言わないほうが彼が話してくれる確率が高いと、長年の付き合いで分かっているから。
ゼロはもう一度煙草を口から取って、息を吐く。
そして、そのままこう言った。
「…慰めを言うよりは、良いだろ。」
「…?」
「…今のオレの技術じゃ分からねぇからな。
研究して、還せるって自信はあるが、万が一って可能性もある。」
そう言って、彼はもう一度煙草を吸い始めた。
ヴァルスは、ゼロのその言い方にため息を吐いた。
いくら長い付き合いだからといっても、彼が良い人間なのか悪い人間なのか、彼には未だに判別がつかない。
今回のこれだってそうだ。
多分自分の失敗だから、というのもあるのだろうが帰してやろうとするいいところも影に隠し、裕璃の前では彼女を世界から引き離した悪い人間でいる。
本当に、よく分からない性格の持ち主だ。
「…なら初めから、ユーリにそう言えばいいだろう?」
と、ヴァルスが呆れた声で言うと。
「…めんどくせぇ。」
という声が返ってきて、ヴァルスは思わず眉間に手を置いた。
と、そこになにやら下の書庫の方が騒がしくなるのを、彼らは感じる。
「…?」
ヴァルスは不思議に思って、屋根の端の方まで歩いて行き、ベランダになっている下を覗き込む。
するよ、丁度そのとき、ドアから修司と裕璃が出てきた。
「…あれ?いない…。」
修司は、ドアから数歩離れてから、辺りをキョロキョロ見回す。
裕璃はドアの近くでそんな修司を見ながら、
「…ねぇ、修司君。本当にこっちでよかったの?」
と、不安そうに聞く。
修司は裕璃を振り返って、
「ん〜…、前にゼロさんに何かあった時、ここに居るの見たから今回もここかと思ったんだけど…無駄足だったかも。
ゴメンね、裕璃ちゃん。」
と言う。
本当にすまなそうに言う修司に、裕璃は微笑みながら、
「そんな、修司君別に悪くないよ。探せばいいだけだもの。」
修司はその言葉によってか表情によってか、照れて頭をかく。
ヴァルスは、いつの間にこんなに仲良くなったのかと思って二人を見ていた。
「(シュウは女性が苦手だ…と言っていたはずだが…。)」
まぁ、それは今は気にしても仕方が無いことである。
「シュウ。」
彼はその考えを一時消去して、声をかけた。
修司はどこから声をかけられたのか分からず、辺りを見回していたので、
「上だ。」
と言って、彼を導いてやる。
修司はその言葉に従って上を向くと、やっとヴァルスの顔を見つけることが出来た。
「あ、ヴァルスさん。」
「え?」
裕璃は修司と同じところまで行き、上を見上げる。
ヴァルスは、屋根の上に立っていた。
「…なんでそんなところに居るんですか?」
確かにもっともな質問である。
この家の3階は書庫とベランダで閉めており、ほぼ半分ほどのスペースがあるベランダはかなりの広さである。
それなのに、そこよりも高くて危険な屋根に上っているのである。
高いところがよっぽど好きなのかと、聞きたくなる。
「…これは…」
「オレを追ってきやがったんだよ。」
ヴァルスの声をゼロが遮った。
ヴァルスがその声に反応して後ろを振り向くと、彼は丁度立ち上がり、こちらに向かっている所だった。
「ゼロさん。」
「…。」
修司と裕璃は、ゼロの姿を屋根の端に来た辺りでようやく見つけることが出来た。
しかし、彼はそのまま歩むのをやめなかった。
屋根の本当にギリギリの所まで来ると、なんと彼はそのままそこからベランダへと飛び降りてしまったのだ。
「「?!」」
裕璃と修司が驚きの表情を浮かべる中、彼はそのままこともなげにベランダへと着地する。
「…何のようだ?」
ゼロは不敵に二人に笑って見せた。
あっけに取られていた二人だったが、裕璃がいち早く我に返る。
彼女は呆気にとられていた表情から真剣な表情へと変え、彼に言った。
「あの…、ウィンシーさん。」
「…何だ?」
「私を帰す方法…分からないんですよね?」
裕璃の真剣な問いかけに対して、ゼロは、
「ああ。」
と、煙草を投げ捨てながら素っ気無く答える。
「ちょ…ゼロさん…。」
そんな言い方は無いんじゃないか、そう修司は言おうとした。
しかし、
「いいの。修司君。」
裕璃はその言葉を制した。
その裕璃の様子に、ヴァルスは驚く。
先ほどの弱々しい行動からはまったく想像できない強さだと思ったから。
裕璃はしばらく右手を握り締めてから、意を決したように口を開いた。
「帰し方が分からなくても、私は絶対に元の世界に戻って見せます。
一人ででも、帰る方法を絶対に探し出して見せます。」
その瞳は決意に満ちていた。
ゼロはそれを無表情で見つめる。
「…お前には無理だ。」
「無理かどうかは、やってみないと分かりません。」
「素人に何ができる。」
ゼロがそう言うと、裕璃は押し黙ってしまった。
確かに、彼女は魔法のことを全然知らない。
それどころか、この世界のことですらまるで分からないのだ。
そんな状態では、探すはおろか普通に生活することすら出来ないだろう。
しかし、
「それでも…。」
裕璃の瞳から、決意の色は消えない。
「それでも、絶対に帰って見せます!!」
決意の色をたたえた瞳と、その口から発せられた言葉には、強い意志が滲み出ていた。
ゼロはその視線を真っ直ぐに受ける。
修司はその様子をハラハラしながら見守る。
ヴァルスはゼロと同じ等に屋根の上から落ちて、彼らを見た。
裕璃は、依然としてゼロを真剣な瞳で見つめ続ける。
彼はその視線を受けて、
小さく、笑みを浮かべた。
「素人には無理だと、言っただろう?」
「だけど…。」
「オレなら別だがな。」
「…え?」
ゼロはそのまま、書庫の方へと踵を返した。
裕璃はその後姿を、驚いたような表情で見つめる。
「…どういう意味…ですか?」
ゼロはその言葉に足を止め、顔だけ裕璃のほうを振り向いた。
「…オレが探す…って事だ。
…ま、シュウのついでもあるがな。」
そう言って、彼はドアの方を向き、それを明けて書庫の中へと入ってゆく。
裕璃はその様子をただ呆然と見ていた。
しかし、ドアにゼロの手がかかったと思ったときに、ふと我に帰る。
自分はまだお礼さえ言っていないということに気がついて。
「あ…ありがとうございます!!ウィンシーさん!!」
裕璃は、その背中にお礼の言葉を送った。
すると、ゼロは言われた瞬間にピタッと歩くのをやめる。
今度は振り返らずに、彼は言った。
「…気色悪ぃ。」
その声はとても低くて、裕璃には聞き取りづらかったのか、
「え?」
と、彼女は聞き返してしまう。
「…『ウィンシーさん』と呼ぶな。気色悪ぃ。ゼロでいい。」
「あ、はい!ゼロさん!!」
「“さん”もいらねぇ。それと、敬語もやめろ。じゃなければ、この話は無しだ。」
そう言って、彼はドアをパタンと閉めた。
裕璃はその言葉を聞いて不思議そうにしていた。
しかし、彼の真意が少し分かったような気がして、
本当はちょっと意地っ張りなだけなのではないだろうかという気がして、
思わず微笑む。
「よかったね、裕璃ちゃん!」
修司の言葉に、彼女は彼の方へと振り向いた。
彼はとても嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
隣に居たヴァルスも、微笑んでいた。
「うん!」
彼女も、その二人の表情に答えるように微笑んだ。
それと同時に、
彼女はそっと心の中で呟く。
―――――分かったよ、ゼロ。と。
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