第二章
 3 彼らの仕事



ただただ暗い、闇の中。

裕璃は目の前の背中を追っていた。

この世界に来てから、一度も会っていない妹の背中を。

彼女にとって愛璃は唯一の家族で、一番大切な存在だから。

会いたくても会えないそんな今だから、顔を見たかったのだ。

しかし、彼女の努力とは裏腹に愛璃の背中は一向に近くならない。

それどころか彼女を嘲笑うかのように徐々に遠ざかっていく。

裕璃は、それでも彼女の背中を追う。

それしか、彼女には出来なかったから。

けれど無常にも、愛璃はそんな彼女に気がつくことは無く、ただただ先へと進み続ける。

やがて愛璃は暗闇の中へと姿を消し、裕璃はその場に跪く。

なぜ自分の方を向いてくれないのか、そう思って。

裕璃は最後の思いを託して ―――― 叫んだ。



「愛璃ッ!!」

その瞬間彼女の目の前に飛び込んできたのは、先ほどとは別の光景だった。

暗闇に包まれていたはずの視線の先が、突然白くなったのである。

別に先ほどまでの空間が白く染まったと言うわけではない。

ただ単に彼女が瞼を開けて、その瞳に天井が映ったというだけである。

裕璃は首を横に動かし、窓のほうを見る。

するとカーテンから光が伝わってくるが、それがいつもの朝の感覚よりも少し強く感じる。

裕璃はただ呆然とその光を見ながら、ポツリと呟いた。

「また…夢?」

言葉に出したとたん、それは彼女の中で真実味を帯びてきた。

だって、あの光景はあまりにも抽象的だったから。

愛璃が居なくなる ――― それは現実にありうることだろう。

しかしそれが何も無い暗闇の中というのは、あまりに現実的ではない。

それに、彼女は理解していたのだ。

自分がどうしてあんな夢を見たか、なんてことは。

「…多分、相当寂しいんだろうなぁ…。」

少々顔を赤らめながら、裕璃はため息をついた。

そんなに自分は彼女に頼っていたのだろうか、と思って。

彼女は双子でも一応姉である。

いくら唯一の家族であると言っても、少し自分が情けないように思えたのだ。

彼女の半身だってこんな姉では困ってしまうだろう。

裕璃は苦笑しながら立ち上がり、近くにあった窓のカーテンを開けた。

先ほどまでカーテン越しだった光が、一気に部屋の中へと降り注ぐ。

そんな光を浴びた裕璃は、眩しかったのか目を細める。

彼女の目線に広がるのは、いつもよりも低い位置に上っている朝日。

どうやら例の夢のおかげで、いつもよりかなり早く起きてしまったらしい。

そういえば普段よりも眠いかもしれないと思い一瞬二度寝することを考える裕璃。

しかし自分の性格上、再びベッドに戻っても寝付けないだろうと思った裕璃はクローゼットの前へと歩む。

庭にでも出て、気分をかえよう。

そう思いながら、クローゼットの中から上に羽織る服を取り出す。

場所こそ違えど、元の世界とほぼ同じ行動をしている裕璃は、その時ふと気がついた。

「…そういえば見なくなったなぁ…。」

ごく最近まで続けざまに見ていた、あの夢を。

この世界に来てから、一回も見ていないのである。

疲れていると眠りが深く、夢を見ても覚えていないという説もあるだろう。

しかし、今日は夢を見た。

ではなぜ突然見なくなったのだろう。

裕璃はその理由を考えかけて、やめた。

それは考えても答えが出ないことだから。

本当の理由を知るためには、あまりに推理する材料が足りていないのである。

それに見ていないといっても、たった数日間のことだった。

これから見る可能性だってあるだろう。

裕璃は今はその考えでとりあえず納得しておこうと思った。



裕璃はあまり音を立てないように、玄関の扉をそっと開けた。

この家の住人が寝ているのは二階だけれど、朝が早かったのでなんとなく大きな音を立てたくなかったのだ。

裕璃は同じ要領で扉を閉めて、裕璃は屋根のある玄関口から歩き出す。

そしてそのまま外に出ると、風が彼女の体を撫でた。

大別すれば北国に位置するこの国は、春と言えども朝は少し肌寒い。

しかしその冷たい風のおかげで、より太陽の光を暖かく感じられる。

それが彼女には心地よくて、光を浴びながら背伸びをした。

「―――― ユーリ?」

「えっ?」

突然自分の名前を呼ばれて、彼女は驚きの声を上げる。

まさかこんな時間に誰かが起きていると思わなかったのだ。

裕璃は慌てて声のした方向を振り向く。

「…ヴァルス…さん?」

しかし、それがますます彼女を戸惑わせる結果となる。

彼女の左手の方にいたのは確かにヴァルスだ。

他に人もいないし、声の質も彼だった。

格好も白衣こそきていないものの、色違いのいつも通りのスラックスとシャツである。

いつも通りの彼のなぜ裕璃は戸惑ったのかというと、原因は彼の左手に握られた物が原因だろう。

何故か彼の手にはスコップが握られていたのだ。

しかも、明らかに園芸用の。

「どうしたんだ、こんな時間に。」

裕璃はスコップの存在に少し気を取られながらも、

「…なんか…目が覚めちゃって。」

苦笑いを浮かべて、彼に答える。

「ヴァルスさんは、どうしたんですか?」

「…? 私はいつもこの位の時間には起きているが?」

「え、そうなんですか?!」

裕璃はその事実に驚いた。

確かに、彼は彼女より早く起きていた。

自分が起きている頃には既に朝食の半分が作られいるなんてことも珍しくない。

しかし、今の時刻は五時少し過ぎぐらいで、まさかこんな時間から起きているなんて思ってもいなかったのだ。

「何でこんな時間に起きてるんです?」

何かやることでもあるのだろうか。

裕璃はそう思いながら彼に聞いてみた。

するとヴァルスは少し考えてから、

「…見てもらった方が早いかもしれないな。 来てくれるか?」

と言ってクルリと後ろを向いてゆっくりと歩いてゆく。

裕璃は少し戸惑いながらも、それについて行った。



連れて行かれたのは、今まで彼女が行った事が無かった場所だった。

もちろん家の敷地内だが横手の方から入る上あまり通路にスペースが無かった。

そのため、彼女は分からなかったのだ。

こんなものがこの家にあるなんて。

裕璃は驚きながら、その光景を見ていた。

「…畑?」

そう、彼女の目の前に広がるのは紛れも無く畑である。

畝の数が三つと少ないがこの家の三分の二ほどの長さがあり、ちょっとした大きさはあるだろう。

「…ヴァルスさんって、農家なんですか?」

同じ表情のままヴァルスに聞くと、彼はそんなことを言われるとは思っていなかったのかきょとんとする。

裕璃はそんな彼の態度からそれが間違っていることに気づいて、顔を赤らめた。

「あ…そうですよね! これ位の畑だけじゃ農業で食べていけませんよね。」

家で食べる分ですか、と裕璃は慌てて口にする。

するとヴァルスは彼女の態度が微笑ましくて、思わず顔に出てしまう。

そんなヴァルスの態度に、彼女はますます恥ずかしく感じてしまった。

「…そういえば、ユーリには話してなかったな。」

と言って、彼はさらに先へと進む。

やがて突き当りにあるドアの前まで行き着くと、彼は裕璃を手招きした。

裕璃は不思議に思いながらも彼の方へ少々早いペースで歩いてゆく。

ヴァルスはそんな裕璃に先ほどの表情を浮かべたまま、そのドアのノブを回して、押した。

中へ入れということだろうと解釈して、彼女は促されるままドアをくぐる。

しかし、部屋の内部は依然としてよく分からない。

裕璃が入ってきた方と反対側にそれぞれ窓がはある。

しかし、朝であるためかその窓からあまり光が入ってこないのである。

何の部屋なのだろうか、と裕璃が思っているとヴァルスが光源装置に手を置いた。

その瞬間、あまりよく見えなかった部屋の内部が隅々まで見渡せるようになった。

裕璃はただ呆然とその光景を見つめる。

「――― これって…。」

その部屋は子供部屋くらいの大きさだった。

何も置いていなかったら結構な広さなのだろうが、たくさんの棚や中央に設置したテーブルのおかげで少し狭く見せている。

他にもう一室あるのか、別な場所に続くであろう扉がもう一つあり、その先は分からない。

それだけ言えば普通の部屋と何等変わらないだろう。

しかし、そこには普通の部屋にはおそらくないものが多く存在していた。

まず目につくのは、テーブルの上に載っているものだ。

ビーカーにフラスコなどの様々なガラス器具が置いてあり、蒸留器や遠心分離機、仕舞いにはすり鉢のようなものが大中小と3サイズ置いてある。

戸棚の中はたいてい本だが、テーブルに置いている分が比でないほどのガラス器具が置いてあり、裕璃にはよく分からないような機材も沢山しまってある。

また別の棚の中は、色々な草や様々な色のついた粉末や液体が入ったビン、石なども置いてある。

その中で最も目を引いたのは、彼女が立っている反対側の窓の方に備え付けられているコンロ。

キッチンに置いてあるような大きさで、周りに鍋も大小そろえてある。

何でこんな所にこんなものが、と裕璃が思っていると、

「私の仕事場だ。」

と、ヴァルスが言った。

裕璃がコンロからヴァルスへと視線を移すと、彼は彼女が見ていた方向とは逆にある戸棚の前にいた。

その様子からして、何か探しているようである。

「ヴァルスさんて、化学者なんですか?」

裕璃がそう言うと同時に戸棚から何かを取り出して、ヴァルスはまたも微笑みながら、

「残念ながら、はずれだな。」

と言って、取り出したものを持ってコンロの近寄って行く。

そして湯沸し用の鍋を一つ取り出して、近くの水道から少し水を入れて火にかけた。

裕璃はその言葉を聴いて、不思議に思った。

この部屋の中にあるのは化学用品ばかりであることは彼女にも分かる。。

記憶の中にある学校の化学室ともよく似ていたから。

だから裕璃はヴァルスが化学者だと思ったのだ。

しかし、それは彼はあっさりと否定してしまったのである。

では彼の生業は一体なんなのであろうと、これ以上ぴったりなものが果たしてあるのかと裕璃は思ったのだ。

裕璃は少し考え込んでから、

「…じゃあ、調理師?」

と、今度は少しずれた職業を言ってみた。

するとヴァルスは面食らったような顔をしてから、くすくすと笑い出す。

「まさか、そのような職業が出るとは思わなかったな…。」

ヴァルスは今度はその近くにあったティーポットの中に袋の中身を入れながら、裕璃に言った。

確かにまな板や水道はあるものの、この部屋の風景から調理師なんて想像するのは中々困難だろう。

考えがかなり突飛だったかもしれないと思って、裕璃が再び考え出そうとすると、

「…まぁ、その間のようなそうでも無いような、そんな職業ではあるがな。」

と言ってヴァルスは微笑みかけた。

その言葉はますます裕璃を混乱の渦に陥れることになる。

調理師と化学者の間のような職業と言われても、殆どの人は想像がつかない。

勘がかなり鋭い人なら別だろうが、あいにく裕璃は一般人である。

そのようなことを言われても、ますます分からなくなるだけだ。

裕璃は再び考え込むが、まったく関係のない二つの職業をどうつなげていいのかまったく分からない。

「…分かりません。」

と、裕璃は少し悔しそうにヴァルスに言った。

これ以上考えても自分には答えが出せそうに無かったから。

ヴァルスは裕璃が考えている間に鳴り出した鍋の方を向いてコンロの火を止めてから彼女に言う。

「私は、薬剤師なんだ。」

裕璃は言われた言葉に思わず納得してしまう。

確かに、薬剤師ならファンタジー世界であるここならこういう器具があるのも分かる。

彼が時々白衣を着ていることも納得であるし、時々家に居ないのはここで調合でもしていたのだろうと納得がいった。

「出張して営業する場合もあるが…基本的にはそこの扉からつながる店で薬を売っているんだ。」

ヴァルスはポットを右手で持ち、先ほど何かを入れたティーポットの中に鍋の中の水を入れる。

彼はティーポットに蓋をしてから、先ほどそれを取り出した戸棚の中から一つのティーカップを取り出した。

「そうだったんですか…。」

ちょっと意外そうに言う裕璃に、

「無職だと思ったか?」

と、ヴァルスはちょっといたずらそうな表情をして聞く。

裕璃はそんな彼の答えに、慌てて首を振った。

「そ、そうじゃないんです!!この間買い物したときにゼロさん惜しげもなく財布ごと渡すから…。」

何で生計立ててるのかずっと気になっていたんですと、裕璃はだんだん顔を赤らめながら言った。

ヴァルスはカップの中にお湯を入れてから、裕璃に向かって微笑んだ。

「言っておくが、誰もゼロも薬剤師なんて言ってないぞ?」

「え?!」

裕璃は思わず驚きの声を上げてしまう。

一緒に住んでいるようだし、同じようにどこかにいなくなるから、てっきり同じ職業かと思っていたのだ。

「じゃあ、ゼロさんの職業は何なんですか?」

「基本的には方陣魔法の研究者なんだが…。」

「…ホウジン…魔法?」

裕璃が首を傾げながら聞くと、

「…そうだな…。」

ヴァルスは少し考えながら答えた。

「魔力を原動力として特定の言葉で発動するのが魔法と言うのは分かるか?」

「はい。」

「言葉の代わりに魔方陣を使用するのが、方陣魔法だ。」

裕璃は少し考えてから、ヴァルスに向かって言う。

「…つまり、魔方陣に直接魔力を流し込んで使う…という解釈でいいんですか?」

「まぁ、そのようなものだと思っていい。」

ヴァルスは微笑みながら言う。

裕璃は今度は当たっていたことに、安堵の表情を浮かべた。

要するに、魔方陣が元の世界で使われている装置のスイッチ、魔力を電気のように使っているのである。

そう考えれば、彼女にも理解できた。

「…因みに。」

今まで手にしていた鍋をコンロの上に置く。

「例えば、このコンロ。」

次にその隣にある水道を指差しながら、

「例えば、あの蛇口。」

最後に彼は、壁にある光源装置のスイッチとも言える部分を指差しながら、

「例えば、この灯りに方陣魔法が応用して使われているんだが…。」

「はい。」

「――― これは全部、ゼロが作ったものだ。」

「………ええ?!」

裕璃は驚きを隠せなかった。

確かに、彼はどこかに篭っていた。

しかしまさかこんな発明をしている人だとは思わなかったのである。

「すごい…ですね…。」

賞賛する裕璃に、ヴァルスは件の微笑を浮かべたまま、

「…ま、そうだな。」

と、カップを持って流しに中のお湯を捨てる。

しかし、裕璃はその表情が少し気にかかった。

確かにいつもと同じ表情だとは思ったが、微妙に何か違和感を感じたから。

裕璃が無意識にヴァルスを見つめていると、ヴァルスはその視線に気がついたのか、

「…話はそれたな…。」

と言って、カップを清潔な布で拭く。

裕璃はそう言われた時視線が合い、初めて自分が彼を見つめていたことを知る。

彼女は恥ずかしくなって、慌てて視線をそらした。

彼はそんな裕璃に微笑を浮かべながら、カップをを再びテーブルに置き、ティーポットの中身を注ぐ。

そしてそのままそのカップを持ち、裕璃の方に歩いてきた。

「ここでは、こういったものも扱っているんだ。」

裕璃がおずおずと視線を上げて、見えたのはヴァルスから差し出された一つのカップと笑顔のままの彼。

裕璃は一体なんなんだろうと思いながらも、そのカップを受け取る。

しかしスゥッとすがすがしい香りを感じて、それがすぐに何であるか気がついた。

「ハーブティー…ですか?」

「ああ。気持ちを落ち着ける効果があるから、きっとよく眠れるだろう。」

ヴァルスのその言葉に、裕璃は一瞬行動を止めた。

どうして自分がよく眠れていないと、彼は知っているのか。

裕璃にはまったく分からなかったから。

彼女の困惑を読み取ったのか、彼は続けて言った。

「こんな時間に起きて来たことは一度も無かっただろう? …それに…。」

ヴァルスはティーポットを流しに置き、その中に水を流す。

「外に出てきたとき、相当辛そうな顔をしていたぞ?」

裕璃は思わず顔を俯かせる。

気づかれないように、自分は笑顔でいたはずなのに。

それでも、彼に気づかれてしまった。

彼女はそれを後悔した。

裕璃は誰にも心配をかけたくなかったのだ。

確かにこの世界に呼び出された原因は彼らにある。

それでも、話していてやさしい人たちだと思ったから。

これ以上迷惑なんてかけたくなかったのだ。

ヴァルスはそんな彼女を見て、苦笑いを浮かべた。

思わず言ってしまったが、それが彼女をさらに追い詰めてしまったから。

彼女が自分たちを気遣ってこっそり出てきたことぐらい、彼には分かっていた。

気づかなかったことにしておいたなら、彼女はいつも通りに戻っていたのかもしれない。

しかし、ヴァルスはそうしなかった。

いつもの裕璃は、彼にとって少し無理をしているように見えたから。

向こうに居た時の彼女がどんなものかは彼は知らない。

だが、今の彼女は時々とても寂しそうな表情をするのを、彼は知っていた。

寂しくさせている原因の一端に自分がいることは分かっているし、それによって裕璃が遠慮していることも知っている。

分かっていたが、何故か無視することは出来なかったのである。

「…まぁ、言いたくないのならそれでいいがな。」

無理に話しかけたのは自分だ。

誰にも頼りたくなくて出てきた彼女から、何かを聞き出そうなんてヴァルスは思っていなかった。

ただ目に見えて寝不足な彼女に、安らいで眠って欲しかった。

だから、ここまで連れてきたのである。

裕璃はそんな彼の言葉に、顔を上げた。

何か聞かれるのではないだろうかと、彼女は思っていたのだ。

「…聞かないんですか?」

裕璃が聞くと、ヴァルスは先ほどの表情を浮かべながら、

「言いたいのか?」

と、さらに彼女に聞いてくる。

その問いに、彼女は首を勢いよく横に振る。

ヴァルスはその様子が少しおかしくて、ふっと息を噴出してしまう。

裕璃はその様子を見て、少し恥ずかしくなった。

「…だろう? なら話さなくてもいい。」

その代わり頼りたくなったら遠慮するなと言うヴァルスに、裕璃はこくんと頷いた。

そのやさしさが胸に染みて、少し泣きたくなったけれど。

ごまかすようにハーブティーを一口飲む。

「…おいしい…。」

思わずこぼれた裕璃の言葉に、ヴァルスは又も笑みをこぼした。



代わって、時刻は一時を過ぎた頃。

裕璃はキッチンに立っていた。

もうお昼ご飯は食べた後であり、裕璃はその片づけをしていたのだ。

――― と言っても、もう皿洗いも終わり気味だが。

「オイ、寝ぼすけ。」

裕璃は声がした方向へ、勢いよく振り向いた。

すると、そこには彼女の予想したとおりの人が立っていて、

「私は寝ぼすけなんて名前じゃありません!」

と、恨みがましくちょっと睨んでその人物に言ってみた。

しかしその相手はそんな彼女の様子には全然臆することが無い。

それどころかその人物 ――― ゼロは唇を小さく笑みの形にして言った。

「さっきまで寝てた奴は何処の誰だ?」

裕璃はその言葉を聞いて顔を赤くした。

言われたことが真実だったからである。

―――― ハーブティーを飲んだ後、彼女は自分の部屋に戻った。

もう一度寝て、疲労を回復させるためである。

しかし、その疲労が原因かハーブティーが原因かは分からないが、彼女にとってそれは予想外の事態を引き起こしたのである。

裕璃が次に目覚めた時刻が、もう少しで正午になりそうな時間帯だったのだ。

さすがに寝すぎてしまったなぁと、裕璃は少し反省する。

そのおかげで、いつもは自分が作るのを手伝っていたお昼ご飯もヴァルスがすべて作っていたのである。

朝のことといい、昼のことといい、彼には世話ばかりしてもらって申し訳なく裕璃は思っていたのだ。

ただでさえ恐縮なのに図星をつかれてては、恥ずかしく思うのも当然だろう。

「別にわざわざそんなこと言わなくても…。」

裕璃が口ごもりながら呟いた。

「…ま、そんな事はどうでもいい。」

と言うゼロに、じゃあ何で『寝ぼすけ』呼ばわりしたんだろうと不思議に思う裕璃。

普通に名前を呼んでいればいいはずなのに、そう裕璃は思ったのだ。

しかし裕璃はそれをゼロには言おうとしなかった。

言っても答えてくれないことが分かっていたから。

「何の用なの?」

裕璃がそういうと、ゼロは彼女に手を出すように言う。

なぜなんだろうと思いながら手を出すと、彼は彼女の手の上に何か載せる。

見てみると、どうやら前にも借りた彼の財布と何か書いてある紙だった。

「…おつかい?」

「察しがいいな。」

ゼロが満足げに笑うのを見てから、裕璃は渡された紙を開いてみた。

しかし、裕璃はその中身を見て眉をしかめる。

別に買ってくるものが嫌なものだったとかそんなわけではない。

書き忘れと言うわけでもない。

確かに、その紙には文字が書かれていた。

しかし ――――

「…読めない…。」

裕璃はその文字列を凝視しながら言った。

確かに、そこには自分が買っていくべき品々が書いてあるのだろう。

しかし、明らかに日本語で書いていないその文字は、裕璃には読めなかったである。

「だろうな。」

ゼロは然も当然という風に言うと、裕璃はさすがに戸惑った。

読めないと分かっているならば、なぜ自分に頼むのだろうかと。

「…誰も一人で行けとは言ってねぇ。」

裕璃が何か言う前に、ゼロが答えた。

どうやら顔に出ていたらしいと、裕璃は少し顔を赤くする。

「誰かって…。」

誰を連れていけばいいのだろうと裕璃が思っていると、ゼロはキッチンのドアの方に向かって歩き出した。

彼はドアノブを捻ってドアを開け、そのまま廊下へと出て行く。

ゼロはドアを閉める際に振り返り裕璃の方を向いて、

「シュウを連れてけ。」

と言うと、パタンと扉を閉めた。

裕璃はそんな彼の様子をただ呆然と見ていた。

確かに、彼は自分勝手な節がある。

しかしまさか会話を一方的に終わらせるほどのものだとは思ってなかったのである。

裕璃は彼が出て行ったドアをしばらく見つめてから、そんなことを考えた。

「…連れて行く人を指定するなら、初めから修司君に頼めばいいのに…。」

ポツリと呟いて、彼女はため息を一つ吐く。

そして再びキッチンの流しの方を見て、残りの食器を洗い始めた。

彼の中で完結したことは何を言っても無駄、ということは会って日の浅い裕璃も十分に知っていたから。





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