第三章
1 修司の苦悩
エルトランド国の王都に程なく近い森。
国の北側に聳え立つ山脈への道を閉ざすように、広がってるその森は昔からその場所に鎮座している。
そのためにか木々の背丈は高く、緑の匂いも濃い。
辺りに匂いが立ち込めているのは、山から吹いてくる風が木々を揺らすからだろうか。
しかしその様子は、心を和ませると言うよりも恐ろしいという印象しか受けない。
枝葉が揺れこすれ合うたびに出る音が、まるで悲しみの叫びのように響く。
それゆえ、この森はこう呼ばれていた。
――――― 嘆きの森、と。
そんな森の中に、一つの影が見え隠れしていた。
まだ大人にはなっていないだろうと推測できる背丈。
それは王都から殆ど離れていない所にいる、少年の姿だった。
年のころは、17、8歳といったところ。
黒い髪を男子の一般平均くらいに短くしているその人物の名前は、御崎修司。
裕璃より少し前にこの世界に来たと言う、日本人の少年である。
「まさかこんな所まで来ることになるとは思わなかったなぁ…。」
修司は、ため息を吐きながら背中にある鞄を背負いなおした。
今現在の彼の家と呼ぶべきところから持ってきたものである。
家から来たときには殆ど何も入っていなかったその鞄には、今は多くのものが詰まっているらしく程ほどに膨れていた。
一体、彼はこの場所に来る前に何をしていたのだろう。
それは彼にとっては恒例の、とある人からの命令が深く関係している。
その人は、とある研究をしていた。
そのために彼は必要な物を彼に取って来るように修司へ強要、もとい協力を要請した。
快くもとい強引に引き受けさせられた修司は町へ買い物に出かけたのだが、
渡されたメモの中に一つだけ売っていないものが混じっていたのだ。
そこでいつも利用している店の主人達に聞きまわった所、嘆きの森ならば生えているだろうという情報を得る。
何ヶ月も暮らしていた修司は、この森が見た目はとても恐ろしいということは知っていた。
だからその森には近づきたくないと思っていたのであるが、これはとある人からの命令である。
心優しくヘタレな修司は、その強引な頼みを無視は出来なかった。
森の風体よりも帰ってから施される仕返しの方が彼にとっては怖かったのだ。
「まったく…ゼロさんは…。」
自分に頼みごとをした人物の名前を、恨みがましくポツリと呟く修司。
しかしその表情は、どこかほっとしていた。
確かに命令されてここに来たのではあるが、同時に嬉しく思っていたのだ。
別にこんな不気味な森を気に入ったわけではない。
今は一人になって考える時間が必要なのだと、修司は思っていたのだから。
―――― 二週間前に、とある事件が起こった。
知り合いである年下の男の子が被害者となりそうだった、とある小さな出来事。
彼を助けるために彼らは自らその事件に足を踏み込み、見事解決する。
しかし彼がその時一番したかったことは、少年を助けることではなかった。
彼を助けるために走り出した優しい裕璃が、深い傷を負ってしまったら。
そう思った瞬間、彼は体は勝手にその場から走り出していた。
彼女を守りたいと思い、彼はその事件へ足を踏み入れたのである。
しかし、その想いはあっけなく砕かれることになった。
「…女の子一人、守ってあげられないなんてなぁ…。」
修司はまたもや大きくため息を吐く。
確かに、少年を助けるという彼らの目的は果たせた。
しかし、自身が裕璃を守るという彼の目的は果たされることが無かった。
彼女が傷つくことは無かったが、それは自分がした行いのためではない。
彼は彼自身のことで精一杯だったのだ。
もし偶然にもゼロが駆けつけていなかったら、裕璃はどんな酷い怪我を負っていただろうか。
そう思うと、彼は心臓が握られるような思いになった。
守れ切れなかったという事実は、彼が落ち込む原因となったのである。
「…ここに来れて、よかったのかも…。」
だから、彼は一人になりたかったのだ。
家にいては、誰かと顔をあわせる場合が多い。
町の中であっても、異邦人とは言え二ヶ月もここで暮らしている彼には知り合いも少なくはない。
そんな彼らに落ち込んでいる姿を見せるのは、少々気が引けた。
優しい彼らは、自分を心配してしまうだろうと思ったから。
自己嫌悪に陥っているだけなのに彼らに心配をかけてしまうこと、それは彼には許せなかった。
そんな彼にとって、誰も寄り付かないこの森はうってつけの場所だった。
誰にも見られずに、自分ひとりで反省することが出来るだろう。
「今回はゼロさんに感謝…でもないか…。」
彼は一瞬微笑を浮かべたが、すぐに難しそうな表情になってしまう。
確かに彼が人気のないこの森まで足を運んだのは、ゼロの命令のお陰かもしれない。
しかしそれが自分に頼まれたとあるもののためであると思うと、素直に喜べないのである。
修司はため息を吐きながら、ガサゴソとポケットの中に手を伸ばす。
そして幾分も経たないうちに一枚の紙切れを取り出した。
ゼロから貰ったお使いメモであるそれには、多くの印がついていた。
終了したものの横に、修司が手持ちのペンで印をつけたのである。
もう既に売切れてしまったものの所にも、別な印がつけられている。
そんな文字の中に、一つだけ横に何の印もつけられていない文字列があった。
今回修司がもっとも持って行くべきかどうか悩んだ植物であるその名前は、幻覚草。
一定量飲ませた相手に幻覚を見せる植物であり、彼の言葉で言わせてもらえば一種の麻薬である。
そんなものはもちろん普通の店には売ってはいなかったし、自分だって買いたくは無かった。
方陣魔法の研究者であるゼロに、どうしてそのような植物がいるのか彼にはわからなかったのである。
「…でも、持って帰らなかったら相当怒られるし…。」
修司は頭を悩ませながら、ここまで来た。
その植物を食べることでの副作用は無いと、店の主人にも言われた。
だからと言ってそんな植物をゼロに渡してもいいのかと彼は思ったのだ。
一時的とはいえ、人体に影響を及ぼすのは確かなのである。
しかし、同時に修司は分かっていた。
たとえこの場で修司が取ってこなくとも、ゼロが一人で来てしまうだろうということを。
彼は納得のいくものを持ってこないと、自分で取りに行く傾向がある。
それは数ヶ月彼と共に暮らしてきた修司にも分かっていた。
そうであるならば、ここで自分が見つけよう後で彼が見つけようが一緒である。
いや、見つけられなかった場合の仕返しを考えると寧ろ前者の方が得だとも思える。
だから彼は自らがそれを取って来て、妙なことには使わないと約束させようと思っているのだ。
「…まぁ、素直に聞いてくれるとは思えないけど…。」
彼の言うことなど、彼にとっては風の前の塵にも等しいかもしれない。
しかしもう一人の同居人であるヴァルスの協力が得られれば、それも叶わないことではないだろう。
修司はそう思って、手で両頬を軽く叩いた。
落ち込むのはお使いの品を揃えてからだと、言い聞かせたのである。
「…よっし。」
そう言って、彼はまた一歩森の中へと足を踏み入れる。
歩くたびに少しだけ変わる景色を、修司はキョロキョロしながら見ていた。
別に迷うことを恐れているのではない。
木々の種類を見分けているのだ。
幻覚草はある特定の木の根元に生える、と言うことを修司は店の主人に教えてもらった
同時にその木がどんな風体をしているのかと言うことも。
彼は辺りをじっくり観察することで、その木の有無を確かめようとしているのだった。
「…あれかな?」
と、特徴が似ている木を発見する修司。
しかしその木はまだ大分離れており、遠くから見た印象が似ているだけ。
彼はもっと近づいて確認しようと、歩みを進めた。
「うわッ!!」
突如叫び声をあげる修司。
目標の木に近づこうとそればかり見ていたので、足元に全く注意を置いていなかったのである。
彼は地面に自分が倒れこむ前に、近くの木に慌てて手をかける。
そうして何とか転びこむことを回避した修司は、一つのため息を吐いた。
「…注意散漫だなぁ…俺。」
元々ここは森であり、辺りは木で囲まれている。
その上人があまり寄りつかない場所であるので、草葉の背丈もそれなりにあった。
木の根元も見えないほど。
修司は自分がそれに引っかかってつまづいたのだ。
そう思いながら、彼は後ろを振り向いた。
「…え?」
修司の目が大きく見開かれる。
彼が振り向いた先にある、つまづきの原因となるもの。
それが想像とあまりにもかけ離れていたから ――――――
一方、エルトランド国王都内部。
町の中の中ほどに位置する、他に比べて少し大きめの一軒屋。
庭は屋敷よりも大きなスペースがとられているその家は、つまるところヴァルスとゼロが住んでいるあの家である。
居候と言ってもいい立場にある裕璃は、その家のダイニングに居た。
「…ん〜…。」
裕璃はソファーに座りながら、机の上にあるとある物体とにらめっこしていた。
その表情は真剣そのもので、右手に握られたペンへの圧力からもそれが感じられる。
彼女は今、戦いの真っ最中なのだ。
「…大丈夫か?」
心配そうに彼女に問う声が一つ。
それはこの家の家主の一人、ヴァルスが発した言葉である。
彼は今までそんな彼女を見守っていたのだが。
しかしあまりにも真剣に取り組んでいるものだから、心配になってきたのだろう。
裕璃は声をかけられて、慌てて机から彼のほうへと視線を移した。
「だ…大丈夫です!!」
しかしその声の調子に真実味は全く感じられなかった。
心配してしまうほど彼女が焦っていることしか考えられないからだ。
もちろん、それはヴァルスも一緒である。
「…本当か? 無理そうならば今日わからなくてもいいことなのだが…。」
おもわず言葉が出てゆく、ヴァルスの口。
それに対抗すべく、裕璃の口もまた開く。
「いえ! 今日やります!! 頑張りますから…その…。」
しかし続きは言いにくいのか、口をもごもごさせて終わってしまう。
自分が今これを分かりたいと思うことは確かであるが、その分彼の負担も増えてしまうのである。
自分が時間をかければかけるほど、彼の時間もとられてしまうのだから。
それならばいっその事自分ひとりでとも思うのだが、
自分だけではこれをこなすことが難しいということは分かっていた。
だから、何も言えずにうつむいてしまう。
「…分かった。」
「…え?」
その優しげな声に、裕璃は俯いていた顔を上げる。
すると、声と同じようにやわらかい表情をしたヴァルスがいた。
「今日中に、理解したいのだろう?」
「…。」
裕璃は沈黙したまま、首を縦に振った。
確かに彼に迷惑をかけるだろうということは分かっている。
分かってはいたが、それでも裕璃はそれを今日中に済ませて起きたかったのだ。
すると、ヴァルスは満足そうに彼女に微笑みかけた。
「ならば、私は協力するしかあるまい?」
その瞬間、裕璃の表情が満面の笑みとなった。
自分の頼み事を、彼は何も言わずに了承してくれたのである。
それを喜ばすして、人は何を喜ぶのだろうか。
そんな彼女の様子を、彼はいつもの表情のまま見守る。
裕璃が喜んでいるということが嬉しい、とでも思っているように。
「…では、再開するか。」
「はい!!」
裕璃が普段の彼女から想像できないほど元気良く返事をする。
よほど嬉しかったのだろう、彼女はそのままテーブルの方へと向き直った。
正確に言えば、テーブルの上に乗っている、一枚の紙のほうへと。
そう、裕璃の本日の敵とはこの紙切れのことなのである。
どの場所にもありそうな、一枚の紙。
しかしその紙には少々おかしなことが書いてあった。
本・ペン・キッチン・城・玉ねぎ、などといった日常にありふれた言葉が二十個ほど書いてあるのである。
日常的なものではあるが、並べる意図が全く見えない。
全く関連性が無いのだから当然だろう。
実を言うと、並べてある意味というものはまったくなかったりする。
これは裕璃に対しての課題なのだ。
裕璃はまだこの世界に来て、一ヶ月も経ってはいない。
それゆえにこの世界で知らなくてはいけない常識というものが、彼女には欠けていた。
その一つが文字の読み書きなのである。
確かに裕璃はその世界に来たとき、この世界の言葉がすんなりと喋れた。
どのような原理が働いているのか彼女には分からなかったが、日本語を話している感覚で話しても現地の人々には伝わっている。
しかし話せるからといって文字が読める訳ではなかった。
彼女より先に来ていた修司もそうだったのだが、ここの文字で彼女に理解できたものは皆無だった。
彼女の母国語である日本語とも、多少は分かる英語とも、フランス語やドイツ語などとも違う言葉。
それを理解するためには、もう一度基本中の基本である記号から覚えなおす必要があった。
裕璃は二日前にそれをマスターし、ようやく名詞の理解に入ったのである。
まだ見慣れない単語であるのだから分からなくても無理は無いのだろうが、裕璃は元来真面目な性格をしている。
今日出されたものは、今日のうちに覚えておきたいのであろう。
「えっと…。」
裕璃は紙を見つめながら無意識のうちに呟いた。
ヴァルスはそんな裕璃を見つめながら、笑みを絶やさない。
以前にも、彼は同じような光景を見たことがあった。
それも、殆ど同じような立場で。
「…何してんだ、お前ら。」
突然、ドアの方から声がした。
ヴァルスはその聞きなれた調子の音に、反射的に振り向く。
すると、そこにはゼロがいつも通りの不機嫌そうな表情で柱に手をかけて立っていた。
「見ていて分からないか?」
そんな彼を見ても、ヴァルスはいつものように微笑んだ。
ゼロが機嫌が悪いことなど見慣れているという事もあるだろうが、眉根も寄せない。
「…?」
そんな彼をゼロは訝しげに見る。
ヴァルスが視線をゼロから裕璃に移すと、彼も裕璃達の方へ近づいて来る事が気配で分かった。
ゼロは裕璃の前方に立ち、テーブルの上を覗き込む。
そして彼女が今やっているものを見て、彼はますます顔をゆがめた。
「まだんなことやってんのか、お前。」
呆れが含まれたその声に、裕璃はおもわず敏感に反応してしまう。
裕璃は少し睨み気味に、彼のことを見上げる。
「だって…よく分からない言葉ばっかりだから。」
「見たら覚えろ。」
ずばりと言い切るゼロを前に、裕璃は何も言えなくなってしまった。
裕璃は確かに学校では優秀な方であったが、見ただけで覚えるという器用な事は出来ない。
まだ少量のことであるなら分かるが、毎日大量の文字と格闘しているのである。
頭が混乱しても無理ないだろう。
しかし、彼女はそのことを言い返そうとは思わなかった。
確かに普通の人間には出来ないだろうが、ゼロならばできそうな気がしたのである。
自信満々に言い切るくらいである、あながち外れているとは言えないだろう。
裕璃はそう思ってうつむいてしまう。
何も言えないのならば、うつむいて文字を追うしかなかった。
「…オレにも一目では無理だと思うぞ?」
そこに、ポツリと響く一つの声。
彼らのやり取りを見ていた、ヴァルスのものである。
その言葉を聞いた数瞬後、裕璃は顔をゆっくりと上げた。
まさか彼からそんな言葉が聞けるなんて、思ってもいなかったのだろう。
裕璃がおずおずとヴァルスの方へと視線を移す。
「そんな事を出来る者の方が稀だろう、ユーリ?」
すると、それを待っていたかのように彼は続きの言葉を言った。
いつものように笑顔を浮かべているヴァルス。
そんな彼に向けて、裕璃はおもわず微笑んだ。
「はい!!」
彼女の元気のいい返事に、ヴァルスは満足したかのようにうなずく。
ゼロが何か妙なものを見る目で自分を見ていたが、そんなことは関係なかった。
今は彼女に気持ちよく勉強してもらうことが何よりも大切だと思ったのである。
彼女の嬉しそうな表情を見れば、彼の表情ももっと柔らかくなった。
ゼロはそんな彼らをじっと見つめると、諦めたかのようにため息を吐いた。
「シュウもそんなこと言ってやがったな、そういえば…。」
後ろ頭を右手でかくゼロ。
「え? 修司君も?」
裕璃が疑問の声を上げると、ヴァルスが件の表情のまま彼女に言う。
「ああ、シュウも文字を覚えてるときにかなり苦労をしてな。」
「そうなんですか…。」
裕璃はおもわず、驚きの声を上げた。
彼女は二週間ほど前に彼と買い物に行った。
その時買い物のメモを渡されたのであるが、中に書かれたものはこの世界の文字。
まだ召喚されて間もない裕璃には読めることができず、ゼロの指図もあって修司に付き合ってもらったのだ。
その時、彼は中に書いてある文字をすらすらと読んでいたと思ったのである。
しかし、よくよく考えてみると修司だって日本人なのだ。
この世界の文字をあそこまで読めるようになったということは、相当の努力をしたはずなのである。
「偉いんだなぁ…修司君って。」
裕璃が感心したようにポツリと洩らすと、ヴァルスは声を上げて短く笑う。
「…アイツが偉い…ねぇ?」
すると、それに合わせる様にゼロも口元で笑って見せた。
「?」
そんな二人を不思議そうに見つめながら、裕璃は首をかしげた。
本心を口にしたのに、笑われたのだ。
自分が言ったことのどこが可笑しいのだろうかと、不思議に思ったのだろう。
ヴァルスはそんな彼女の表情を読み取ったのか、咳払いをして強引に笑いを止める。
「いや、昔のシュウを思い出してな。」
「昔…?」
裕璃が彼に問うように聞く。
当たり前ではあるが、彼女は自分がここに来る前の彼らを知らない。
当然二ヶ月ほど前からこの家に暮らし始めた修司のことも同じである。
だから少々気になったのだ。
自分が来る前まで彼らがどんな生活を送っていたのか。
そんな彼女の気持ちを読み取ったのか、ヴァルスが口を開く。
「いや、修司がこの家に来たときもやはり文字の勉強から始めたのだがな。」
「? それは普通のことでしょう?」
裕璃がきょとんとして言うと、またもヴァルスから笑声が聞こえてくる。
何がそんなに可笑しいのだろうと。
「その時も丁度こんな風にゼロが姿を現してな、修司に教えだしたんだよ。」
「……………えぇ?!」
裕璃の口から驚きの声が漏れる。
彼女はまさか彼がそんな事をするとは思っていなかったのである。
ゼロの性格は一言で言ってしまえば、自分勝手。
そんな彼が誰かに教えると言うことは、彼女の中で結びつかなかったのだ。
「そしたらな…ゼロは何をしたと思う?」
そんな質問をヴァルスにされて、裕璃は少し考え込んだ。
確かに、ゼロが何もしないで修司の勉強を見てくれるとは裕璃も思っていない。
いつもの行動を見ていれば、分かることだ。
大抵彼は修司をからかい、見える範囲の中では裕璃がそれを庇っていたりもするのだから。
しかし、時には誰に対しても全く無関心でいる時間もある。
それは研究の新しい理論が生まれそうだったり、魔力の奔流が高いときであったり様々だったが、そういうときには誰にも何も言わないのである。
それゆえ、余計に裕璃には分からなかったのだ。
両極端な彼は修司にならどんな事をしそうであるし、また何もしないようにも思える。
だから裕璃には答えが分からなかったのだ。
裕璃はヴァルスに向けて首を横に振る。
しかし彼は表情を崩さずに、裕璃に向かってこう言った。
「自分の部屋にある研究書を一冊渡して、『明日までに第5項まで訳して来い。』と、言ったんだ。」
大体50ページぐらいだな、とヴァルスはさらりと言った。
裕璃はその言葉に唖然とする。
きてばかりの人間に与える課題にしては少々辛すぎると思ったのだ。
自分ではそれを完全に訳すことなどできないだろう。
10ページを訳す前に疲れて寝てしまう、そんな気さえした。
「…それで、修司君はどうしたんですか?」
すると今度は、ゼロが答えた。
「徹夜して全部こなしやがった。」
その言葉に、裕璃は感嘆の吐息を洩らす。
まさかそんな分量を本当にこなしてしまうなんて、彼女は思っていなかったのだ。
素直に裕璃は、修司に感心していた。
自分には出来そうもない事を、彼がやり遂げた。
それは彼女にとってとてもすばらしいことのように思えたのであろう。
しかし、次の瞬間裕璃の考えは歓心からとある方向へと向かうことになった。
「だが、この話にはまだ続きがある。」
裕璃がその言葉に反応して、ヴァルスのほうへと視線を向けた。
すると彼はやはり笑みを浮かべたままで、裕璃を見つめている。
「確かに修司は全部やってはいたのだが…、表現に曖昧なところが多くてな。」
「あ…。」
裕璃はおもわず、声を洩らした。
自分にも身に覚えがあったからである。
例えば英語には、同じ単語でも何個も訳があることもある。
一番を選ばなくてはいけないのに、二番の訳を選んでしまった。
その場合、文章とはとてつもなく妙なものになってしまうものなのである。
高校に二年も通っている裕璃にとって、それは身近なこと以外の何者でもなかった。
「それについて、ゼロがきれてな。」
ヴァルスが懐かしそうに、最後の言葉をつむぐ。
「次の日はこう言ったんだ、『やり直して第10項までやって来い。』と、こう言ったんだよ。」
それが嫌で言葉を覚えたのだろうな、と言いながらヴァルスクスクス笑う。
ゼロはそんな彼に、
「オレがわざわざ教えてやってんだから、それぐらいやってきて当然だ。」
と、実に偉そうに言い放つ。
そんな彼らを、裕璃は唖然として見つめていた。
前日までに出来なかったものの、たとえ直し部分が入っているとはいえ倍の量の宿題を出される。
それは修司にとってかなりの苦痛だったのではないだろうか?
自分がそんな事をされていたら、少なくとも泣いているだろう。
彼女にはそれを命じるゼロの気持ちも分からなかったし、笑って済ませるヴァルスの気持ちも分からなかった。
出身地も学年も、境遇も似ている裕璃には彼のそのときの気持ちが手に取るようにわかった。
「…大変だったんだなぁ…修司君…。」
彼らに聞こえないように、ポツリと裕璃は呟いた。
その瞬間 ――――――
ガタンッ!!
その家の中に、何かの音が響いた。
三人は一斉に、その音が聞こえてきた方向を見つめる。
家の間取りから想像すると、玄関から聞こえてきたものだろう。
「…お客さん…かな?」
裕璃は不思議に思いながらも、立ち上がる。
あんなに大きな音をたててドアを開ける人なんて、彼女が暮らしてきた数週間の間は誰もいなかったのだ。
隣に住んでいるエスメラルダが来るときでさえも、ドアをノックして入ってくる。
訪れた人はよほど急いでいるのか、慌てているのかそのどちらかだろうと推測できる。
ならば早く玄関に向かうべきだと、裕璃は思ったのである。
ここに来るお客の応対はすっかり彼女の役目になっていて、反射的にダイニングの扉を開けた。
そして玄関の方へと視線を向けた瞬間、彼女は動きを止めた。
「あ! 裕璃ちゃん!!」
そこにいたのは、先ほど彼らの話題にも上っていた修司。
噂をすればなんとやらとは言うが、別に彼女はそのせいで停止したのではない。
裕璃にとって驚くべき光景が、そこにあったのだ。
なぜだか泥で汚れている部分もあり、何かで切った跡もある。
髪の毛に葉をつけていることから、どうやらどこかの森や草原を強行突破してきたのではないかということが推測できる。
しかし彼女にとってそんな光景は既に見慣れたものである。
ゼロが何かしたせいで服が焦げていた、などという光景も見たことがあるのだ。
今更そんな姿だけでは、彼女は驚かない。
そうであるのなら一体何が裕璃を驚かせたと言うのか。
それは、彼の背中に背負われたとあるもののせいだった。
「…どうしたんだ? ユー……………」
ダイニングのドアから姿を現すヴァルス。
応対に向かったはずの彼女の声が全く聞こえてこなかったので、不思議に思ったのだろう。
彼の視線は裕璃の背を見つけ、すぐに目の前にいる修司を見つける。
そして、彼にしては珍しく言葉を詰まらせた。
「…ん?」
その横から、ゼロが顔を出す。
長年の相方と言ってもいい相手がドアから半身身を乗り出したまま動かない。
それは彼にとって妙な光景だった。
確かにヴァルスはいつも妙な行動をするが、動きを止めるということは滅多にない。
それならばドアの外に何かあるのだろうと、そう推測したのだ。
ゼロはその目でヴァルスと同じくして身を固まらせている裕璃を見つけ、ほぼ同時にその前にいる修司を発見する。
そして彼が背負っているものを見た瞬間、彼はニヤリと笑みを浮かべた。
「お前そんな趣味があったのか?」
一瞬、彼の言葉の理由が理解できない修司。
しかし自分が背負っているものが何であるのか気がついた彼は、おもわず顔を赤らめた。
「ち…違いますよ!! 俺に幼女誘拐なんて趣味はないですってッ!!」
「…しかもそんなものまでつけて…お前大丈夫か?」
「ちょ…ゼロさん信じてくださいよ!!」
「真実を述べてるだけだ。」
「だからその見解がそもそも間違ってますってッ!!」
必至に言いつくろう修司と、彼をからかうゼロ。
そんな二人を、裕璃はただ呆然と見守っていた。
修司が背負っていたもの。
それは、女の子だった。
年のころなら10歳ほどの、気絶した少女。
それだけならば、まだ彼女は驚かないかもしれない。
修司が拾ってきたという時点で、彼は少女を助けたのだろうと裕璃は思うのだから。
しかし、今回は彼女はそこまで思考を持っていくことが出来なかった。
それほどまでに驚いていたのだろう。
―――――― 少女に獣の耳と尻尾が生えている、という事態に。
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