第三章
 2 真実の重み



所は変わって、リビングルーム。

団欒などを楽しむそこは、いつも夜に使用されていた。

裕璃達は確かに全員が殆どの時間を家で過ごしている。

しかし、全員がそこに集まるという時間は朝の一時や夜の少しの間のみだった。

別に仲が悪いという訳ではない、どちらかといったら良好な方だろう。

その証拠に昼間暇を見つけてはヴァルスが裕璃に文字を教えたり、ゼロが修司を追い回すなどという光景も見られる。

ならば何故彼らが日中その場所を使わないかというと、ひとえに彼らの職業のせいだった。

片や薬屋、片や研究者。

それは自宅でも出来る仕事であると同時に、休みなどあって無いような職種。

各々休憩などは入れるが、時間がかみ合うこと事態が少ない。

ゆえにいつもは裕璃と修司が談笑の為に使用している、その部屋。

今日も今日とて、彼らはその場所にいた。

…しかし、この時ばかりは修司は必至だった。

目の前にいる裕璃となぜかゼロに対して、言っておかなければならないことがあったから。

「…だからつまり、誘拐とそんなんじゃなくて!」

かなり必至に言葉を続ける修司。

そんな彼を、裕璃は唖然としながら見ていた。

修司は普段はおとなしい性格で、本来このような喋り方はしない。

普段見られない彼の姿を見て、少々驚いているのだろう。

「助けただけ…なんですってば…。」

最後は息も絶え絶えに話す修司。

そこまで疲れるほど喋らなければいいと思うかもしれないが、事は彼にとって緊急を要するのだ。

―――― 自分にロリコンの気があるなんて、誰も思われたくは無い。

しかも相手は自分の気になっている女の子。

その気持ちも一入であろう。

その上、彼女の隣には話をさらに面白おかしく脚色しそうなゼロまでいる。

彼が連れて帰ってきたのは少女で、なおかつ耳と尻尾が生えている。

ゼロのからかう対象としては、格好の獲物であろう。

一緒に暮らし始めて数ヶ月ではあるが、彼のそういった性格のことを修司は熟知していた。

そんな状況で恥だの外聞だのといったことを、彼には気にしている余裕はなかったのだ。

「…えぇっと…つまり…。」

そんな必至な修司を目の前に、裕璃がようやく重い口を開く。

「あの子が倒れているのを見つけた修司君が、それを助けた…で、いいのかな?」

確認するように発せられた、彼女の言葉。

修司はそれを聞いた瞬間に、心の中でガッツポーズをとった。

あの女の子を連れて帰ってきたときに、ゼロに『そんな趣味』呼ばわりされたのである。

彼女がそのことを信じていたら、彼にとっては一大事だったから。

しかし、彼女の口から出てきたのは、今まで話してきたことの要約。

彼女に誤解はされていないのだと分かって、彼はとても嬉しかったのだ。

「そう! そうなんだよ裕璃ちゃん!!」

いつになく元気に肯定する、修司。

その明らかにおかしい態度に裕璃がまた少し驚いているが、彼にはそれが見えていなかった。

自分の好みを疑われなかったその事で、彼の最上空まで上がってしまったらしい。

そんな彼を見つめながら、裕璃は曖昧に笑う。

どうして彼がそんなにも喜んでいるのか、彼女には分からなかったのであろう。

しかし修司は、彼女が今どんな表情をしているかなんてどうでもよかった。

裕璃は自分の事を分かってくれたのだ。

修司は裕璃が信じてくれたということを信じたし、それでいいと思ったのだろう。

彼は嬉しそうに微笑みながら、今度はゼロの方を見た。

自分にとんでもない疑いをかけた人物である。

今回もまた自分にとって不都合な事を言ってしまうのでは無いかと思ったのだ。

しかしそんな修司の考えは、いい意味で裏切られることとなる。

「…。」

彼の目線の先にいたゼロは、何かを考え込んでいた。

そんな彼の姿を見て、今度は修司が唖然とする番であった。

ほんの数十分前まで自分にロリコンエトセトラ疑惑をかけようとしていた彼が、なぜか黙っている。

あの時はとても面白そうにからかっていたというのに、今は難しそうに考え込んでいるのである。

遠くを見つめたような、とても真剣みを帯びた瞳。

それはまるで研究中の彼を髣髴とさせるほど、鋭い。

彼のそんな表情を数えるほどしか見ていない彼は、思わずそのまま視線を留める。

「―――― ねぇ、修司君。」

そんな彼に声をかけたのは、またも裕璃だった。

「うぁ! …何? 裕璃ちゃん?!」

ゼロの様子ばかりを気にかけていた修司は、思わず妙な声を上げてしまう。

しかし当の裕璃はそんなことも気にせず、彼に問いかける。

「あの子は…どうしてそんな所にいたのかな?」

「…え?」

「だってあんな小さな子が、何で傷だらけで…。」

それを聞いて、修司はようやく納得した。

裕璃はあの女の子の事を心配しているのだろう。

傷を負って、倒れている少女。

それは心優しい裕璃を心配させるには、十分な材料だ。

まだこの世界の事情を全て知ったわけではないのだから、そう思っても不思議ではない。

だから、修司は少し悲しそうに微笑んだ。

彼は全てを知っている訳ではないが、彼女よりはこの世界について知っていたから。

孤児が多いということも、そのために盗みを働く子供もいるということを。

それに何も悪さなどしなくとも、その子達に辛く当たる大人達もいるということも。

「…そうだね、悲しいことだよね…。」

修司はきゅっと、右手で左腕を握り締める。

そんなことを分かってはいても、自分には何も出来ない。

少女が負っていた傷は、今はヴァルスが治療している。

自分は少女を連れてきただけ、なのだ。

他は何もしていない。

いや、何も出来ないのだ。

何をしたら良いのか、分からないのだから。

修司が思わずうつむいた、その時 ―――――――


カチャ…


扉の開く音が聞こえ、一斉に視線が集まる。

その場にいたのは、いままでこの場にいなかったヴァルスだった。

「ヴァルスさん…。」

裕璃は心配そうに、彼を見つめる。

少女の現在の状態が、気になったのであろう。

すると、ヴァルスはいつものように笑みを浮かべた。

「…大丈夫だ、気を失っているだけだ。」

その瞬間、ほっと息をつく音が聞こえた。

道端に倒れた、幼い少女。

傷を負いながら瞳を閉じた姿は、まるで死んでいるようで。

もちろん呼吸があることは分かっていたが、それでも心配だったのだ。

少女は何も喋ってはくれないのだから。

「…よかった…。」

裕璃が胸をなでおろして、呟く。

口には出していないものの、それは修司も同じだった。

倒れていた少女を見たとき、彼がどれだけ焦ったか。

このままにしてしまったら、少女がどうなってしまうか。

それを考えたら、修司の体は勝手に動いていた。

家に帰れば、ヴァルスがいる。

薬屋を営む彼ならば、彼女の様態が少しは分かるのではないか。

そう思って、必至に連れてきたのである。

気を失っているだけと聞いて、彼も安心したのだろう。

しかし…

「…本当にそれだけか?」

「…え?」

思わず聞き返した修司以外の、音が止まる。

裕璃もヴァルスも、発言をしたゼロでさえ何の音も立てない。

とても長いと感じられる、数秒の間。

彼らがいたその場所は、静まり返っていた。

「…ゼロ。」

ヴァルスがいつものトーンで、彼に呼びかける。

しかしその声には、いつもは含まれていない厳しさが、確かに存在していた。

「それは…今言わなくてもいいことだろう?」

搾り出すように紡がれる、ヴァルスの言葉。

自分に向けられたものではないと知ってはいるが、思わず裕璃と修司は身構えてしまう。

いつも頼りになる彼がこんな雰囲気になったことなんて、これが初めてだったから。

「テメェこそ、何言ってやがる。」

そんな彼に対して、怯みもしないゼロ。

「アレを拾ってきたのは、シュウだ。 知る権利がある。」

当事者が何も知らないなんてことは、滑稽にも程がある。

ゼロはそう言いながら、目の前にいる同居人を鋭い視線で見つめる。

ヴァルスはそんな彼の言葉に対して、苦しそうな表情を取る。

彼は反対だったのだ。

彼女たちに、真実を伝えることを。

「…だが、それは二人を傷つけることになるだろう…?」

ならば、言わないほうがいいのではないか。

伝えなくとも、自分とゼロが力を合わせればどうにか出来るかもしれない問題。

自分たちは少なからずこの国の中枢部ともかかわりがある、けしてそれは不可能では無いはずだ。

二人には何も気付かせずに終わらせるということも可能なのだ。

それならば、二人を傷つけずに済む。

それに話してしまっては、彼女たちは必ず何らかの形で関わってゆくこととなるだろう。

例え自分が傷ついても、他人の為に何かをする。

この二人は、そういうことが出来る人間だ。

だからこそ彼は心配だったのだ。

小さい事件ならまだいい。

しかし、傷だらけの少女が関わっていたものが大きい事だったのなら。

それによって生ずる危険によって、彼らが無事でいられるかという保障は何処にも無いのだ。

「…確かに、その通りだ。」

ゼロはそのことに対して、否定はしない。

真実を知ることが危険をはらむことになることなど、重々承知だった。

裕璃と修司は、己があまり関係の無いところまで手を出してしまう。

先のリオの事件からもそれは明らかである。

しかし、ゼロは同時にこうも思っていたのだ。

「…だが知らなかった事で傷つくことも、あるだろう?」

無知ほど愚かなものは無い。

そう言った瞬間、ヴァルスは彼の顔を凝視した。

そこにあったのは、いつも通り無表情なゼロ。

真意を隠したようなその表情は、今の言葉をより一層強調する。

彼の本心が伝えられているのだと、すぐに分かってしまう。

ヴァルスは思わず、額に手を伸ばして髪の毛をクシャ…と握った。

「…そうだったな。」

苦笑いを浮かべるヴァルス。

ゼロの言うとおりだった。

真実を知らされないことほど、辛いことは無い。

それが自分に関わることであるのならば、なおさらである。

本当のことを言わないまま過ごせれば、確かに楽かもしれない。

しかし、それは同時に真実を知ってしまった時の諸刃の刃ともなる。

何故、あの時教えてくれなかったのか。

何故、あの時知ろうとしなかったのか。

真実に傷ついた時に、重く圧し掛かる事実。

それはさらに深く、傷をえぐる。

少なくとも自分は、それを知っていたはずだった。

真実を伝えられなかった人間が背負う、重みについて。

ごく身近に、感じ取っていたはずだったのに。

「私もまだまだ…だな。」

自嘲気味に微笑む、ヴァルス。

「ああ、お前もまだまだだ。」

そう言いながらクルリと背中を向けるゼロ。

それは自分の口から全てを話せという、合図。

一件無責任にも思えるが、そうではないことをヴァルスは知っていた。

彼は彼が必要な時には、きちんと意見を述べるのだから。

自分の出番を心得ているだけなのだと、少なくともヴァルスはそう思っている。

彼はフッと息を吐いて、苦笑いのまま裕璃と修司の方へと向き直った。

「…少し辛い話になるかも知れないが…大丈夫か?」

二人は互いに顔を見合わせ、同時にヴァルスを見る。

―――― そして予想通りに、同時に首を縦に振った。



部屋の中を、月の光が照らす。

窓からその光はベットの上に寝ている少女と側に控えていた修司も、淡く浮かび上がらせていた。

性別も年齢も身長も、そして種族すら違う彼らには唯一の共通点があった。

顔に浮かんでいたのが、双方とも苦悶だったという点である。

少女が何故そのような表情をしているのか、修司には分からない。

いや、少しは分かっているのかもしれない。

しかし、それは彼の想像の域を超えないのだ。

実際彼女が経験してきたことの、何分の一か何十分の一か。

それだけしか自分には想像できていないだろうと、そういう自覚はあった。

その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえてきた。

「…はい。」

修司が控えめに返事をする。

ドアの外に届くかどうかの、小さな声。

それは目の前の少女を起こさないようにと、配慮した結果であった。

しかし、ドアの外の人物にはそれが聞き取れたのだろう。

やはり彼と同じように、控えめにドアを開ける。

そしてあまり音をたてないように中に入り、ドアを同じ要領で閉めた。

「…様子は、どうかな?」

心配だという気持ちが滲み出た声で問いかけたのは、裕璃だった。

「まだ、寝てるよ。」

少し微笑みながら彼女に言い返すと、裕璃もまた安心したかのように微笑みを浮かべる。

しかし、その表情をしたのも一瞬のこと。

月明かりに照らされた少女の顔を見た瞬間、再び彼女の表情は心配そうにゆがめられる。

いや、そんな生易しい感情ではないのかもしれない。

苦しさややるせなさが入り混じった、そんな表情。

それを一言で表すことなど自分には出来ないだろう。

自分も同じような表情をしていると自覚があった修司は、そう思った。

「…痛そう…だね。」

裕璃が表情の通り、辛そうな声を出す裕璃。

修司はそんな彼女に対して、

「うん…。」

と返すのが精一杯だった。

目の前にいる少女に対して浮かぶ感情で、それ以上の言葉をつむぎ出せない。

少女は、傷だらけだった。

見える部分の顔にすら、二・三の処置した痕が見られるのだ。

しかも、処置された場所以外にも消えない傷は残されている。

顔だけでもこのような状態なのだ、全身がどうなっているのかなど想像がつく。

裕璃はそんな少女に近づき、そっと手を伸ばす。

子供特有の柔らかな頬は、ガーゼの感触に遮られて感じられない。

それが一層痛ましくて、裕璃はますます表情を歪める。

「…酷いよね、種族が違うってだけで…こんな…。」

言葉にならない感情をもてあますかのように、裕璃の言葉は途切れ途切れだった。

修司も彼女と同じ気持ちだった。

種族が違うだけで、このような扱いをしていいはずが無い。

修司はギリ…と右手を握り締める。

少女の種族名は ――――フェスティ。

獣の亜種といわれている、獣人の一種族である。

身体能力は人間よりも遙かに勝っており、定住しないで各地を旅している種族。

性格はきわめて温厚であるが、自己防衛のためになら牙を剥く。

しかし、一旦相手が自分よりも強いと知ったら、殆ど抵抗もしない。

時に反抗はするだろうが、それでも従順に自分より強い者に尽くす。

死ぬまで永遠と、である。

だから彼らを利用しようとする人間はことのほか多いのだと、ゼロとヴァルスは言った。

定住していないということは、人目につき難いということだ。

当然希少価値も高くなっている。

女子供の外見は大変愛らしい上に、身体能力まで高い。

それゆえに彼らを捕まえて強制労働を強いたり、愛玩用に側に置いておくという人間も中にはいるのだと言う。

本人の意思とは無関係に、自分の思い通りに動く手駒として利用する。

何かの力によって彼らを屈することが出来れば、そんなこと造作も無いのである。

「…今まで、どれだけ傷つけられたんだろうね…。」

体の傷もそうだが、心の傷も相当深いだろう。

まだ少女は目覚めていないが、これだけの傷を負っているのである。

どれだけ傷つき、そして苦しんできたのか。

少女のことを何も知らない自分たちには、分からない。

しかし、分かりたいとは思うのだ。

それで少女の心の傷を、少しでも軽くすることが出来たなら。

そう思うと、修司は少女の側を離れられなかった。

自分のエゴかもしれないけれど、少しでも助けてあげたい。

だから何よりもまず、目を覚まして欲しかった。

少女の事を知るためには本人から話を聞く事が大切であるし、何より眠ったままでいるということが心配だったから。

寝ているだけだとは知っているが、それでも少し心配だから。

「裕璃ちゃん。」

「え?」

「俺…って、なんなんだろうね?」

思わず問う、修司。

自分はただこの少女を連れてきただけ。

他には何も、出来ていない。

これでは裕璃の事を守りきれなかったあのときと一緒だ。

他人の為になることを、何も出来ていない。

それではいけないと、何度も思ったのに。

「…修司君?」

心配そうな裕璃の声により、修司ははっと我に返った。

「大丈夫? 疲れているみたいだけど…。」

「だ…大丈夫! …ごめん。」

思わず修司は、謝ってしまう。

話を振っておいて、考え込んでしまう。

それは相手に対して失礼なことであると、彼には思えたから。

裕璃に対してそのような態度をとってしまった自分が、彼は恥ずかしかったのだ。

修司は苦笑を浮かべて、裕璃を見る。

「…俺、部屋に戻るね。」

「え…?」

「まだ自分の中で整理、ついてないみたいだから。」

こんな状況では、少女の側についていても何も出来ない。

早く自分の中にある問題を片付けることが、自分の責務だと思ったのだ。

それに少女の部屋に男である自分が付き添うということ事態、少々おかしいことである。

確かに少女を連れてきたのは自分だが、今は夜だ。

付き添うのなら、まだ裕璃の方が良い。

もしも少女が起きたときに、男性である自分がいたら驚いてしまうかもしれなから。

裕璃はそんな修司を驚きながら見ていたが、

「…うん、おやすみ。」

と、次の瞬間には微笑みを浮かべて自分を送り出す。

彼女には何も教えていないし、おそらく何も気付いてはいないだろう。

気を使わせてしまったと思いながらも、それは今がありがたかった。

自分がこれ以上裕璃といて、ずっと笑顔でいれる自信がなかったのだから。

修司は件の苦笑いを浮かべながら、扉をそっと開け、

「…お休み、裕璃ちゃん。」

と言って、そっと扉を閉じた。

明日の朝、彼女と笑顔で応対できるようになりたいと思いながら。



裕璃は修司が部屋から去てから、扉を数瞬間見つめていた。

彼が何を考えているのか、やはり彼女には分からなかった。

何かに思いつめているということは分かったが、それだけである。

裕璃はため息を吐きながら、ベットに寝ている少女へと視線を向ける。

少女は相変わらず、苦痛の表情で眠りについていた。

良くない夢でも見ているのか、少女の額には汗が浮かんでいる。

裕璃はポケットからハンカチを取り出し、少女の額をそっと拭う。

そんな事をしても、少女の表情が和らぐことは無い。

彼女はそんな少女の顔を、辛そうに見つめた。

「…もっと力になれたらいいのに…。」

少女の事に対しても、修司の事に対しても。

何も知らないから、何も出来ない。

何かしたいのに、何も出来ない。

奇しくも、それは修司と同じ悩みだった。

しかし、それでも裕璃はあまり苦悩することは無い。

それを解決するにはどうすればいいのか、何をすればいいのか。

彼女には分かっていたのだから。

「…少しでも元気になってくれれば、いいんだけど…。」

独り言を口に出しながら、裕璃はそっと少女の左手を握り締める。

こうすることで、少しでも少女の気がまぎれる事を信じて。

ずっとずっと、握り締める。

自分に出来ることは、今はこれしか無いと知っていたから。

自分に出来ることは、やっておきたかったのだ。

――――― 例え自分が眠りについても、ずっと…。



彼女の目の前に広がるのは、とある建物の内部だった。

大きい建物ではあるが、けして華美な造りではない。

神聖ささえ称えた、石造りの建物。

全体図を見ることは今は出来ないが、おそらく神殿であろう。

裕璃はその場に、一人ぽつんと立っている。

いや、立っていると表記するのは少々おかしいかもしれない。

何せ裕璃の足は、地面から離れているのだから。

「…ここって…。」

裕璃は呆然と声を漏らす。

彼女のとって、この場所はとても見知った場所だった。

元の世界で彼女が目にしていた場所ではない。

彼女が暮らしていた日本では、このような造りの建物は中々無い。

その上、窓の外に映る景色は殆ど草原である。

山や森などは多いが開けた土地が少ない日本には、このような風景は滅多に見れないものだった。

それに、今現在彼女が暮らしている場所でもなかった。

このような場所はあるのかもしれないが、少なくとも彼女はこのような場所に行ったことはなかった。

町から外出したことすらないのだから、当然だろう。

では、いつこの場所を目にしたというのだろうか。

それは、まだ彼女が元の世界で暮らしていた時に。

現実の目で見たのではなく、映し出されたものを見たのだ。

「…夢の中と…同じ?」

そう、彼女が呟き通りに、この場所は彼女が繰り返し見ていた夢の風景に酷似していた。

石造りの神殿も、神聖さも、草原も、透けるような空も。

――――― そして、その空を見つめる人物でさえも。

「また、あの人だ…。」

裕璃がポツリと言葉を紡ぐ。

目の前に移ったそれが、双子の妹と暮らしていた時に見た夢にあまりにも似すぎている。

繰り返し見たはずなのに、この世界に来てからぱったりと見なくなったあの夢と。

「…。」

裕璃は、黙って目の前の人物を見つめる。

後姿しか見えないが、おそらく身長は自分と同じくらい。

髪の毛は彼女が見上げている空そのものの色で、長く伸ばしている。

窓を開けているために吹き込んだ風が、サラサラと髪を揺らしていた。

「…。」

その光景は、この神殿にとても似合った幻想的なもの。

まるで一枚の絵画のような、そんな光景。

しかし、裕璃は綺麗だと思うと同時に切なくなってしまう。

目の前にいる女性は、どこか悲しそうだったから。

背中だけ見ていても、それをいつも感じ取ってしまうのだ。

裕璃は右手を胸の所に伸ばすと、そこにある指輪をきゅっと握り締めた。

またこの女性は、私に気付かないのだろうかと思って。

このままずっと気付かないで、私はずっと彼女の悲しそうな後姿だけを見ているだけなのだろうかと。

そんなことは、裕璃はいなかった。

例えこれが夢だとしても、話すらしたことが無い人物だとしても。

彼女の寂しそうな後姿だけは、知っているから。

裕璃は指輪を握り締めた後、きゅっと瞳を閉じる。

話しかける心の準備をしよう。

数秒間そのままでいてから、ゆっくりと瞳を開けよう。

そう思っていた矢先 ――――――

「…あら? あなたは…?」

「え…?」

裕璃は驚きの声を上げながら、瞼を開ける。

すると目の前の光景は、先ほどと変わっていた。

青い空や広がる草原、などといったことは変わらない。

ただ一番重要で、一番彼女が気にしていた部分が変わっていた。

裕璃の目の前にいるその人物の瞳に、今は空は映りこんでいない。

―――――― 透ける様な蒼い瞳の中に映りこんでいたのは、確かに裕璃だったから。





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